原則とその現実世界への落とし込み

第二のデモクラテス――戦争の正当原因についての対話 (岩波文庫)夏読書の名残。まずはセプールベダ『第二のデモクラテス――戦争の正当原因についての対話 (岩波文庫)』(染田秀藤訳、岩波書店、2015)。16世紀になされたスペインによるインディオ征服戦争をめぐり、それは正当であるとの立場で書かれた当時のキリスト教保守系(という言い方は語弊があるかもしれないが)の対話篇。帝国的な領土拡張主義、植民地主義の下支えともなったキリスト教思想の、これはある種の原則論だ。戦争はそもそも自然法により認められているとの基本的立場、戦う相手が野蛮人であり、その蒙を啓くという彼らの利益のために、スペイン人による支配が必要という議論、残忍な儀式や偶像崇拝を消滅させ、キリスト教の福音を伝えるためには、相手側の最低限の犠牲は必要であるという正当化、相手に対する軽率妄動、残忍な振る舞いは戒めなくてはならないという(建前としての)牽制などなど、今なお保守派(の一部?)が用いる主な論法・論点のモデルのような一篇なのだが、同時にその限界のような部分も垣間見せてくれる。

対話篇の中で論敵とされているのは、ラス・カサスなどの、異教徒をむやみに殺戮してはならないという立場の側だが、そちらが暴力行為の逸脱など現実的な側面から議論しているのに対し、セプールベダの側は、逸脱行為を慎む理由はあるのだから、過度の逸脱行為は抑止される、という原則論にひたすら拘っている。この対比がとても興味深い。原則論(戦争を正当化する教義)を現実世界(実際の残虐行為)にどう落とし込むかという問題が問われていると思うのだけれど、原則論をかざす側はあくまで原則論で突っぱねようとしている。かくも現実世界への落とし込みは難しいのか(ちなみに歴史的にも原則論側の議論は功を奏さず、セプールベダのこの著書はラス・カサス側の刊行阻止の運動にあい、19世紀まで日の目を見なかったという)。同書では。戦争擁護の原則論の枠組みで、アウグスティヌスやイシドルス、さらにはアリストテレスやトマス・アクィナスが盛んに引用されるのだけれど、それら権威者たちの思想内容をもそうした枠組みにやや強引に押し込んでいる面も散見され、そのあたりは慎重に見極める必要がありそうだ。

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)もう一つ、ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)』(長尾龍一ほか訳、岩波書店、2015)も読了。これも原則論(理想論)と現実世界との齟齬という意味で興味深い一冊。というのも、ここには民主主義の制度的問題と原理がいくつも指摘されているからだ(政党とか官僚制度とかの不可避性など)。たとえば最近の議論として、行政の決定事項へのアクセスが一般市民に開かれていないことがあげられたりするけれども、ケルゼンの議論によれば、立法の民主主義と同じように、執行の合法律性が民主的形式で保障されるわけではないといい、むしろ中級・下級執行機関の徹底した民主化には、立法民主主義を破棄する危険性すらあるとしている。問題の解決策としては、統制制度として行政裁判制度が重視されている(ううむ、という感じではあるけれど)。これなどは、まさしく原則の現実世界への落とし込みの難しさを如実に物語っている。でも、ケルゼンはかなり頑張っていると思う(笑)。現実に落とし込まれ変貌する原則に、それでもなお希望を失っていないところが、胸に迫るところでもある。この二冊、なにやら国内の政治状況にも重なるようでもあり、岩波書店のタイムリーな(?)刊行にとりあえず拍手。

ホッパー本

中世における数のシンボリズム夏休みからのリハビリを兼ねて(笑)、ヴィンセント・ホッパー『中世における数のシンボリズム』(大木富訳、彩流社、2015)にざっと眼を通す。原著(英語)は1938年刊。訳者あとがきによると、90年代後半から2000年にかけて仏語訳や復刻版が出たりし、その流れで邦訳に至ったということらしい。なるほどこういう企画は貴重。副題(「古代バビロニアからダンテの『神曲』まで」)にあるとおり、古代から中世盛期あたりまでの数のシンボリズムを網羅的に取り上げている。全体的・俯瞰的な視座ももちろん示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、取り上げられている個々の事例がとても興味を惹く。たとえば縁起が悪いとされる13。これが不吉な数と言及される事例は、文献的には意外なことにモンテーニュ以前にはないのだそうだ。学知の世界では13は聖なる数であったといい、それを不吉と捉えるのは民間の伝統・伝承なのだろうという。あるいは長い一章が割かれ、これまた網羅的に取り上げられているダンテの数のシンボリズム。『神曲』が3の数をベースに構成されているといった話は周知のことだけれど、著者によるとその一方で至福の状態の象徴として8の数も屋台骨を支えているのだという。8は「原初の単一性への回帰」「最終的な贖い」を表すというのだが、これなどはとても興味深い論点。こういったことを見るに、できればより最新の知見・解釈なども解説という形で添えてほしかった気がする。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 9 – 10

とりあえず、ヘルメス選集XVIII章冒頭の「音楽の喩え」部分から、末尾を訳出しておく。その後の部分は次のようなかたちで神の称賛が続く。まず神は発芽や実りをもたらす太陽に喩えられ、次いで今度は父親に喩えられる。子供たちをあえて褒め称えることはしないが、子供たちの努力を静かに見守る存在だというわけだ。その後はさらに子供に相当する諸王による平定が讃えられ、王の名前がその象徴をなしているとされる。ここまでで16節。で、この章の結論部分は欠損。

9. したがって演奏家は、万物の神たるこの上なく偉大な王のほうを向くがよい。その神は常に不死であり、永遠であり、永劫の昔からすべてを司り、第一の勝利の覇者であって、そこから、勝利を受け取る後続の者たちすべての勝利がもたらされるのである……。

10. したがって、そうした称賛をもってして、言葉は私たちのもとへと降りてくるよう促されるのであり、共通の安全や平和のための諸王の統治へと捧げられるのだ。それらの王には、かつて最上位の神によって最大級の権威が付され、また神の右手の側から勝利が与えられ、あらかじめ審判も下り、戦の前から褒美も準備され、その勝利の記念は乱戦の前から建てられ、王になることのみならず最上の勇者たることも定められ、彼らは軍事行動にいたる前から野蛮人たちを恐れおののかすのである。

パノポリスのゾシモス

Les Alchimistes Grecs (Collection Des Universites De France Serie Grecque)先月末くらいからズラズラと見ていたのが、パノポリスのゾシモスのものとされる錬金術関係のテキスト(Les Alchimistes Grecs (Collection des Universités de France, Serie Grecque), tome IV, première partie, Zosime de Panopolis, mémoires authetiques, Les Belles Lettres, 2002)。ようやく一通り見終わった。ゾシモスは3世紀から4世紀初めごろの人物で、ギリシア語圏の初期の錬金術師と言われている。ちなみにパノポリスはエジプトの都市で、現在のアフミームにあたるのだそうだ。この版に収録されているテキストは、ゾシモスに帰される「真正な手記」13編の校注版。器具の説明や錬成方法の概要などに加えて、ある種の幻視などを記したものもあり、これらが微妙にオーバーラップしている様子がとても興味深い。客体の操作(金属が段階別に変成を遂げる)と主体の成立(人間も、鉛的人間とか、銀的人間とか段階別に言われる)とがパラレルに描かれ、また強いていうなら、前者から後者が導かれているような(少なくとも着想されているような)記述になっていて、とても興味深いものがある。というわけで、これも夏から秋・冬にかけて、少し時間をかけて訳出していこうかと思っている(たぶん手記1と、手記10あたり)。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 7 – 8

前にも触れたけれど、このXVIII章は基本的に王(ならびに最高位の神)を讃えることがメインモチーフとなっている。それが徐々に前面に出てくるのはこの7節以降から。

7. これはまた、私が自分が被ると感じるところのものである。いと高き方々よ。というのも、まさに今しがた私は自分の弱さを認め、少し前には自分が病弱であると感じていたが、より上位にある方の力によって、王のための歌を仕上げ、歌うことができそうだからだ。したがって、助力によって行き着く果てには諸王の栄光があるのであり、その記念碑からこそ私の言葉の熱意が生じるのである。では先に進もう。それが音楽家の望みなのだから。では急ごう。それが音楽家の意志なのだし、そのためにリュラを調弦したのだから。かくして、与えられた指示がよりよい音を求めるほどに、より甘美な調べを歌い、より心地よい曲を演奏するようになるのだから。

8. 諸王のためにこそ、音楽家はリュラを調弦し、讃える音型を用い、王からの賛辞を目的とするのである。まずはあらゆるものの最高位の王、すなわち善なる神のためにみずからを奮い立たせるのだ。歌はまず高みから始め、神の似姿において支配権をもつ第二の層へと下っていく。というのも、諸王にとってお気に入りであるのは、歌が高みから順に階層を下っていき、彼らに勝利がもたらされたその場所から、継承される希望が導かれることだからだ。