古くて新しい唯物論(物質主義)

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論青土社の『現代思想 』2015年6月号(特集=新しい唯物論)を少し遅れて読んでいるところ。特集は「新しい唯物論」となっているが、こういう表題ではいろいろな主題系をカバーできてしまうので、逆に主要な流れが見えにくいかもしれない。でも、一つには生命現象を物質的なレイヤーから考え直すという、新しいようで古い問題が中核に据えられているようだ。ちょっと面白いと思ったのは、まず藤本一勇「「新しい唯物論」方法序説(素描)」と題された文章。方法序説というよりはマニフェスト(宣言という本来の意味での)に近い気もしなくないが、生命現象へのアプローチを含めた、すごく大きなまとめと展望という感じになっている。対象の操作性から逆に主体が立ち上がってくるといった話などは、改めてとても興味深いものになりうるかも、というのが率直な印象。ちょうど今、個人的にまたも錬金術ものなどを少し見ているのだけれど、錬金術的操作とその神話的側面とのインタラクションとかを(強引の誹りを覚悟の上でだけれど)そんなふうに位置づけられないものだろうか、なんてことを漠然と考えてみたりする……。

個人的に惹かれたもう一つの論考が、森元斎「実在を巡って」。なんとホワイトヘッドの過程的実在論の再検討。なにやら来るべきものが来ているという感触(笑)。ここで中心的に取り上げられているのは、ホワイトヘッドの用いる「抱握」概念。この「相手と自分とを分離せずに、主観の意識によらず、森羅万象に普く適応できることば」(p.165)を追いかけることで、「ホワイトヘッド哲学の生成の側面を記述することが可能になる」(p.166)という。ホワイトヘッドは決して静的ではない、という新たな読み方と、そこから見えてくるホワイトヘッドに固有の「限界」(すべてが「抱握」を通して語られる以外にないとして、出来事、契機、存在、事物などすべてがその枠組みにおいて抽象的になぞるだけになってしまう、という問題が指摘されている)をも含めた新たな思想的風景(?)。その極限的なレイヤを見てしまった後で、そこからより抽象度の低いレイヤに果たして着地することなどできるのかしら、できるとしたらどう着地できるのかしら、というあたりについて、夢想がぐるぐると回っている(苦笑)。

夏読書:遅ればせでピケティを囓ってみる

Le capital au XXIème siècle夏読書は関心領域から少し離れたものも含め、普段あまり読まないようなものとかも眼にしたい……というわけで、いわずと知れた昨年の例のベストセラー、個人的には積ん読のトマ・ピケティ『二一世紀の資本』仏語版(Thomas Piketty, Le capital au XXIème siècle, Éditions du Seuil, 2013)を読み囓りはじめる。なにせ950ページ(仏版)ある大著だし、こちらは基本的に門外漢だし、いつ放り投げてもおかしくない(笑)。でも割と「口あたりのよい」文章が続くので(けなしているわけではありません、誤解なきよう)、さしたる抵抗感はない感じ。本来的にはそれほど売れるものでもない専門的な研究書がベストセラーになったというのは、おそらく一つにはそのあたりの筆運びのよさにもあるのかも、と改めて思う。

さしあたり全体の見立て(同研究の歴史的な位置づけなど)をレジュメっぽく描いた序論(冒頭の約70ページほど)をざっと眺めてみた。歴史的な18世紀末から19世紀初頭にかけての社会変動は、ペシミスティックな経済思想をもたらしたとピケティはいう。農民の所得の低迷と地代の高騰を危惧したアーサー・ヤングやマルサス、そしてデヴィッド・リカード。けれども彼らが準拠するデータはとても限定的かつ貧弱で、しかも技術的進歩と生産の拡大という要因を考慮することができなかった。土地に変わり産業資本について考察したマルクスもそれは同様。ピケティによれば、こうした長いペシミズムの系譜がオプティミスムに道を譲るのは、20世紀に入ってからのクズネッツの研究を待たなくてはならない。クズネッツにいたって、統計データ(所得のデータ)が活用できるようになり、まったく異なる未来図が描かれるようになる(発展にともなう不平等の是正)。とはいえ、クズネッツみずから、自身の推論が思弁的であることを認めていた。で、ピケティは自身の研究もそのクズネッツの延長上にあるとして、その精緻化を試みる。先人たちが扱い得なかった技術の問題も考慮するとし、ペシミズムとオプティミズムの間をぬって進む道に指針を取る、ということのようだ。うーん、でもこれだけ19世紀の議論などについて思想の枠組みとしての限界を言いつのると、逆にピケティ自身の議論もそういうなんらかの時代的制約を受けているんじゃないかとか、あるいは考慮しえない部分をもっているのではとかいうふうに、おのずと見えてしまうような気がするのだが……。そのあたりは本論で、ということなのだろうけれど、どういうふうに弁護しているのかが気になる。というわけで、もう少しつきあってみることにする(笑)。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 4 – 6

ヘルメス選集のXVIII章の続き。道具(すなわち身体、物質的なもの)には偶発的な事象がつきもので、だから不安定なのだとし、それが貶められるほどに精神への賛美が高まるというこの一節、まさに西欧世界の思想の根源を見る思いがする……(苦笑)。と同時に、その精神を支配者たる神が助けるという構図も示されている。うち捨てられる道具とつねに上方へと引き上げられる精神の二項対立。

4. 仮に彫刻家のフェイディアスが用いる素材が、作品の完全な多様性にそぐわないなら[……欠落……]歌い手があたう限り全うしようとしても、私たちは原因をその歌い手に帰すわけではなく、無力な弦を咎めるのであり、というのも張力をわずかに弱めたばかりに、張力をたるませたために、甘美な歌のリズムを損なったからである。

5. だが、楽器について偶発的事故が生じても、誰も歌い手を非難しはしないだろう。ただ、楽器が悪く言われるほどに、しばしば弦がちょうどの音程で弾かれるときには、歌い手の栄誉は高まっていくのだった。[欠落]聴衆も、より大きな称賛をその歌い手に送り、その者にほとんど不平など抱かなくなる。そのように、あなたがた高貴な人々もまた、内面の竪琴を歌い手に合わせてごらんなさい。

6. けれども、巧者の中には、竪琴の作用がなくとも、高貴な調べの準備ができていれば、しばしばおのれ自身を楽器のように使い、密かな方法でもって弦の調子を合わせ、必要に応じた調べを荘厳に奏でて、聴衆をたいそう驚かせてみせる者がいることも見て取れる。歌を司る神の寵愛を受けていたあるキタラ弾きの歌い手などは、あるときコンテストで弾き語りをしていると弦が切れ、競技が続けられなくなったが、支配者の采配によって切れた弦が補われ、名声を得るよう恩寵が与えられたと言われている。というのは、弦の代わりに蝉が、支配者の采配によりそこに止まり、メロディを補完し、その場を収めたからである。そのためキタラ弾きは、弦にほどこされた治療により苦痛を癒され、勝利の栄誉を勝ち取ったのだ。

エラスムスと古典語

エラスムス――人文主義の王者 (岩波現代全書)そろそろ季節的には夏読書、ということで、とりあえず手始めは積ん読になっていた沓掛良彦『エラスムス――人文主義の王者 (岩波現代全書)』(岩波書店、2014)。人文主義者としてのエラスムスについての概説書。以前『痴愚神礼讃』のラテン語からの翻訳について触れた折り以来、追々読みたいと思っていた一冊なのだけれど、なぜかずっと先送りになっていた(苦笑)。個人的には第二部第二章の、古典学者としてのエラスムスについてまとめられた部分がハイライトかな、と。キケロに範を仰いでいた当時の人文主義者のラテン語書法に対して、エラスムスはひたすらキケロを模倣するのではなく、自己の思想・感情を自由に表現できる文体を磨くべきだと主張したのだという。このあたりが、狭隘な殻に閉じこもることのない自由人としての面目躍如というところか。同章では、著書『格言集』からの一節として、”Homo homini lupus”(人間は人間にとって狼である)の解説が引用されているのだけれど、エラスムスはこれをローマの喜劇作家プラウトゥスに由来するとしているのだとか。個人的にはホッブスの言とばかり思っていた一句。ギリシア語も添えられている(Ἄνθρωπος ἀνθρώπου λύκος”)。エラスムスのギリシア語は完全に独学だというが、その発音についての指摘(二重母音の復権や子音の文字通りの発音など)が、現在の古典ギリシア語にまで踏襲されているところはやはりすごい。と同時に、16世紀初頭の当時、すでに当代のギリシア語の発音が現代ギリシア語のような簡略化(ηがすでにiの音になっていたり、μπの子音のつながりがbの音になっていたり等々)に向かっていたらしい点もなかなか興味深い。あと、エラスムスの書簡にあるという一節「学ぶべきことを知らないでいるよりは、たとえ遅くなってからでも、それを学んだほうがいいと考えています」は、まさに至言。

著者の沓掛氏はいわずとしれた古典研究の大家。このところ著書・訳書の刊行が相次いでいる。『人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)』『エラスムス=トマス・モア往復書簡 (岩波文庫)』、『黄金の竪琴 沓掛良彦訳詩選』『ギリシア詞華集1 (西洋古典叢書)』。これらもとても楽しみ。これまた追々見ていきたいと思う。

普遍数学前史 – 補遺(中世&デカルト前夜)

デカルトの数学思想 (コレクション数学史)先に取り上げたラブーアン本に続いて、再び普遍数学前史を今度は邦語で見てみる。佐々木力『デカルトの数学思想 (コレクション数学史)』(東京大学出版局、2003)。この第二部が、デカルトに至る普遍数学概念の変遷史を取り上げていて、ラブーアン本と補完的な感じになっている。もっとも、同書は1988年にプリンストン大に提出された学位論文のご本人による邦訳とのことで、この「補完」という言い方では完全にアナクロニズムになってしまうのだけれど……(笑)。佐々木本は、ラブーアン本があまり詳細に取り上げていない中世(触れていないわけではもちろんないけれど)や、17世紀のファン・ローメンなどについて比較的多くのページを割いている印象。この第二部はきわめて実証的な思想史研究となっていて、様々なディテール(それぞれの論者が当時のどの翻訳に準拠しているかとか)が実に興味深い。

中世で取り上げられるのは、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスのライン、さらにその関連でアヴェロエス、またそのラインと対立的なロジャー・ベーコンからのオックスフォード・プラトン主義の流れ、さらに同じフランシスコ会系からドゥンス・スコトゥスの弟子アントニウス・アンドレアエ。ある種の模範解答となったアヴェロエスの解釈は、アリストテレスの「ἡ καθόλου」を普遍学と取り、第一哲学(哲学全体の諸原理を扱うもの)に結びつけ、数学などは(狭義でならば形而上学までも)普遍学から排除しているとされる。数学は自然学と形而上学を架橋するものですらないとされている。スコトゥス主義者アンドレアエもまた、形而上学のみが普遍的であるとの解釈を示している。数学は「なんらかの特定の本性を扱い」、したがって普遍学の地位にはつけないというわけだ。

ルネサンス期についても、佐々木本はアゴスティーノ・ニフォー、フォンセカなどを取り上げていて興味深い。ニフォーは、上のἡ καθόλουを共通数学と取るアフロディシアスのアレクサンドロスと、普遍学と取るアヴェロエスの解釈を両方とも知っていた可能性があるといい、その上でこれを「他を包括する共通数学」のように取っているという。フォンセカは、数学が様式的に形而上学に類似することを指摘しつつも、普遍的なものはあくまで第一哲学という解釈らしい。このあたりはペレイラ(バロッツィの新プラトン主義的数学観に対抗)への援軍の意味などもあっただろうといい、なかなか複雑そうだ。

そしてさらに、デカルト前夜ということで比較的大きく取り上げられるのが数学者のファン・ローメン。共通数学の概念を普遍数学と称し、算術を幾何学の問題に適用することに反対したスカリゲルなどと対立しているという。ἡ καθόλουは数学的なことを含意しているとして、第一数学(数学的諸学の内部にある、他の数学的諸学の道具として用いられるもの)を提唱し、哲学における第一哲学に相当するものを数学内部に打ち立てようとしたという。哲学の優位への信念からは必ずしも自由ではなかったとはいえ、数学を相対的に「第一」で「普遍的」なものに引き上げた点が高く評価されている。同時代の代数学の発展などをも背景にあり、ファン・ローメンの「普遍数学」は、古代ギリシアの数理哲学、インドの数計算技法、イスラム文明のアルジャブル、中性ラテンの「汎計測」への志向などが含まれたユーラシア数学の集大成だ(p.428)というなんとも壮大なパースペクティブが語られている。うーむ、デカルトを目前として普遍数学前史で堂々巡りをするというのは、やはりなかなか刺激に満ちている(笑)。