「000000」タグアーカイブ

『中世哲学入門』は入門にあらず

(初出:bib.deltographos.com 2024/07/26)

個人的に、ブログでもSNSでも、短評めいたものを載せるのは、作品が高評価できる場合が圧倒的に多いのですが、今回はちょっとその路線を外れています。「うーん、これは入門書なのか?なんか違うのでは」と初っぱなから思いました。で、その予測は見事的中。著者ご本人が、早々に、入門書を書くというスタンス放棄を宣言してしまっています(笑)。ものは『中世哲学入門』(山内志朗、ちくま新書、2023)です。

https://amzn.to/479eJzl

スコラ哲学の議論がどういうもので、どういう変遷をたどったのか、どういうキーワードがあり、それらが何を表していたのかなどなど、重要トピックを総覧的に一望する本……かなとタイトルを見れば誰もが思うでしょう。でも、著者が山内氏だということで、これまでの著書と同様、行きつ戻りつ、逡巡しながら既存の定説の括りを批判していくのだろうなあ、という予感がしていました。それは見事的中。中世哲学にあまり触れたことのない人が、同書を見ても、おそらく何もわからないように思います。

想定読者は、おそらく中央公論新社の『哲学の歴史』とか、講談社メチエの『西洋哲学史』、ちくま新書の『世界哲学史』シリーズを読んできた人、という感じでしょうかね。いちおう用語説明みたいなものはちりばめられているのですが、それらもちょっと要領を得ないというか、すぐに脱線したり、史的に遡ろうとしたり、対立概念を出してきたりして、肝心の確証的な説明そのものを離れてしまいます。さらに、ちりばめられた著者個人の歩みや思い。そういうのをひっくるめて、これまでの著書からも「山内節」みたいになっていると思いますが、そういうのを愛するのでもなければ、この「入門」書は、ちょっと読めない本です。

で、そのことを正当化するかのように、著者は中世哲学のテキストについて、「わからなさを気持ち悪いと感じるのであれば中世哲学、さらには哲学から出て行った方がよい」と追い打ちをかけます(爆笑)。それを言ったらおしまいでしょ、という感じです。で、残った人には、「理解できなくてもお経のように眺め、音読してみるとよい。理解するよりも、ハビトゥス化するべきだ」とアドバイス。なんだか『燃えよドラゴン』の一場面(”Don’t think, feel”)みたいですが(笑)、でもそれを、著者ご本人の本で実践させてどうする、とツッコミたくもなります。それ、結構玄人向けのスタンスですからね。

個人的に、少しだけ中世哲学の世界を垣間見たことがある経験からすると、確かにその文書群は一瞥しただけではよくわからないし、理解するためには膨大な読書量が必要かと思います。でもいろいろな制約があるのも事実です。だから誰もが一からやるのではなく、適切な手引き書が必要という気がします。入っていく先に複雑な迷宮が待ち構えているならば、せめてその大まかな見取り図がほしいですし、あるいは外から眺めるだけでよしとする向きがあってもよいように思えます。そんなわけで、この入門書には、あえて愛あるダメ出しをしないといけない、と思うのです。

 

『食客論』

(初出: bib.deltographos.com 2023/07/23)

星野太『食客論』(講談社、2023)を読んでみました。敵でも友でもない、二項対立をはぐらかす曖昧な存在としての「食客」。そうした食客をめぐる文学的試論です。通底するのは、共生より根源的な「寄生」についての議論です。個人的に、これは面白い!

https://amzn.to/471CZU3

印象的な挿話の数々や議論展開。ちょっとだけ箇条書きにしておくと……。

  • ロラン・バルトの講義で意図的に曲解される、18世紀末の美食家ブリア=サヴァランの一言(人との会食は一時間は楽しめる → 一時間しかもたない)
  • 二項対立を突き崩す可能性の嚆矢としてのルキアノス「食客」
  • 博愛的なキケロが万人の敵とする「海賊」と、そこから連想的に問われるシュミットの敵・味方の関係論
  • ラーゲリの捕虜収容所を経た詩人・石原吉郎の食への両義的なかかわり

などなど。とくに個人的に気になったのは、やはりルキアノス(2世紀ごろ)ですね。というわけで、さっそくLoebの収録本をマーケットプレースで注文してしまいました(笑)。

 

アンディ・ウィアー賛

(初出:deltographos.com 2023/07/16 )

映画にもなった『火星の人』(映画のほうは未見ですが)が、とても良かったアンディー・ウィアー。その長編3作目だという『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(上下巻、小野田和子訳、早川書房)を読了しました。今度もまた、様々な問題に巻き込まれて、対応しなくてはならない主人公の姿を、とても細やかでリアリスティックな描写で描いています。圧巻ですね。

https://amzn.to/3rzeI7s

今回の大問題は、いきなり地球を救うというミッション。『火星の人』では、置き去りになった側と、帰途についた側、そして地球の管制塔の側の話が順に展開していく構成でしたが、今回のこれは、ミッションにかり出された理科の教師(もとは研究者)の話と、そこにいたる過去の話が交互に語られていきます。そして壮大な危機。主人公は果たして地球を救えるのか?

……と思いきや、なんとファーストコンタクト話になっていきます。ファーストコンタクトものもいろいろありますが、今回のは状況が面白いですね。こちらが科学者・技術者、同じく異星人の側も科学者・技術者で、共通の問題を抱えていたとしたら?当然、とりあえずは協働する道を探るだろうと思います。でも、そもそも意思の疎通はどうするのか。このあたり、とても細かい話になりそうですが、それを見事な処理で描き出しています。そのための数々のアイデア、いずれも実に秀逸です。すばらしい。

ネタバレですが、このバディの関係、なにやら個人的には、『攻殻機動隊』のトグサ(バトーじゃなく)とタチコマを連想したのでした(笑)。

 

個と一般のあわい(ポール・ド・マンなど)

(初出:deltographos.com 2023/07/06)

昨年末くらいに文庫化されたポール・ド・マンの『読むことがアレゴリー』(土田知則訳、2022)を、とくに第二部のルソー論を中心に、このところつらつら読んでいました。抜粋などにしか触れることがなかったので、やっと目を通すことができた〜という感じです。

https://amzn.to/3O0RUX3

このルソー論、評判通りとても刺激的なものでした。これ、ルソーにおいて、名指される対象としての「個」と、社会のほうへと開かれていく「一般」とが取り結ぶ微妙な関係性を、いくつかの著作から読み取っていくというものなのですね。両者の関係がどちらかにきっちり切り分けられずに、ある種の緊張感を伴いながら、どっちつかずの宙づり状態で保持されていることが、ルソーの思想的な核心部分をなしている、という解釈です。脱構築的な読みとして、これはとても面白い読みの試みです。

個と一般の関係性は、それぞれの著作の個別的な箇所から浮かび上がるテーマである以上に、著作全体、テキスト全体を貫く底流にもなっているのではないか、そのように敷衍して読むこともできるのではないか、というわけです。そもそもルソーの著作というと、一般に、とても個人的な真情吐露のようにも見える私的エセーと、政治や社会についての論とに分かれるように思われがちですが、その実、両カテゴリーは密接につながっていて、いずれの側を掘り下げていっても、もう一方の側が頭をもたげるような、そんな修辞の構造が見いだせる、あるいはテキスト構造としても見いだせるのではないか、と。

研究的な営為としての文学は、やはりこのようなスケールでないとつまんないよなあ、と思ったりもします。あ、でももちろん、万人にできる芸当ではないというのは重々承知しています……。

 

変わりゆく古楽

(初出:bib.deltographos.com  2023年6月20日)

明日21日は夏至の日。ヨーロッパなどでは音楽祭とかが行われたりしますね。そんな折り、ブルース・ヘインズ『古楽の終焉 HIP<歴史的知識にもとづく演奏>とはなにか』(大竹尚之訳、アルテスパブリシング、2022)を読了しました。

https://amzn.to/3JnPeA3

著者は18世紀オーケストラなどのオーボエ奏者だそうで(2011年に亡くなっているそうです)、古楽について酸いも甘いもかみ分けてきた人という感じですね。基本的に、「古楽」というものの来し方行く末について、細やかに論じた良書です。

全体的に浮かび上がるのは、「古楽」のイデオロギー性でしょうか。対立しているロマン派や現代音楽などとの対比から、そのイデオロギー性がどう深まって現在にいたっているかの見取り図が示されています。また、それが20世紀、それもとくに後半の一時代のものにすぎない、といった相対的な見方もきっちり示されています。やがては、古楽の「運動」も古くさい一潮流として振り返られることになるのだろう、というわけですね。

著者は古楽が主に扱うバロック音楽について、それが修辞学的なものであると認識していて、そうした工夫のないピリオド楽器の奏者などには批判的です。修辞学的な技法は、そもそも楽譜には示されていないことも多いとされ、楽譜絶対主義のようなものは一蹴されています。このあたり、いろいろ面白いエピソードが満載です。

個人的に面白いなと思ったのは、たとえばスラーの扱い・解釈です。バロック期の楽譜にスラーの記号が書かれているのは、本来スラーなど用いない箇所に、あえてスラーを持ち込む必要があったからだという解釈も成り立つという話です。修辞的な伝承・伝統として、書かれたものによらないで伝えられていた技法を、楽譜にわざわざ書いたりはしなかったかもしれない、と。さらに、そもそものスラーの意味すら、現代的な楽譜とは異なっている可能性がある、と。

こうなるともはや、今月の『現代思想』が特集を組んでいる無知学じゃありませんけれど、過去の修辞的伝承はどうすれば復元できるのか、そもそも復元などできるのか、といった不知・無学の問題にぶち当たってしまいそうです。過去のことを本当に理解などできるのか、どこでどう過去の事象、歴史的事象と折り合いをつけられるのか……云々。なんとも悩ましい問題ですが、私たちはそのあたりを、堂々巡りと知りつつ、何度も行き来し吟味し続けるしかないのでしょう。ソクラテスの徳目をめぐる検討のように。

同書は70曲以上のサンプル音源が参考としてあげられていることも魅力の一つです。これはなかなか聴き応えがありますので、ぜひ。