ダン・ブラウン的ダンテ像……

映画『インフェルノ』が公開になっているが、いまのところ、とりあえず観に行く予定はない。ダン・ブラウンについても、『ダ・ヴィンチ・コード』こそ通読したものの、『天使と悪魔』とかは途中で放り投げたので、とりあえず『インフェルノ』を読む気もあまりしない。そんな中、ダンテの専門家による『インフェルノ』の書評というか、ダンテ像の検証(笑)が紹介されていたので、つらつらと読んでみた。テオドリンダ・バロリーニ「ダン・ブラウンと誤ったダンテの事案」というもの(Teodolinda Barolini, Dan Brown and the Case of the Wrong Dante, in Dan Burstein & Arne de Keijzer, Secrets of Inferno: In the Footsteps of Dante and Dan Brown, Story Plant, 2013)。なるほど、やっぱりと言うべきか、ダン・ブラウンのその小説は、専門家からするとダンテについて大小とりまぜて様々な誤りに満ちているらしい(俗語がラテン語の対ではなく、高尚なイタリア語に対比されているとか、七つの大罪に本来含まれていない「不実」がまるで含まれているように記されていたりとか、それとの関連で地獄と煉獄がごっちゃになっていたりとか……などが問題点として指摘されている)。まあ、小説だから固いことは言いっこなしという部分もあるかもしれないけれど、ちょっとプロットのために故意に歪めているらしい点もあるようで、それが少々気になる。というのも、この書評の著者によれば、ダンテの詩の力点が恐怖や惨めさではなく救済にあるという核心的な部分に、ブラウンが抵抗を示しているところ(とくに序盤のようだ)が最も納得いかない、とされているからだ。あまりに不誠実なんじゃないの、というわけだ。

『神曲』の地獄描写の新しさは、小説内で言われているように抽象的概念が初めて恐ろしい具体的ビジョン(モダンな)になったことにあるのではなく、アリストテレス的な枠組みでの地獄描写だった点だ、とも書評著者は記している。ボッティチェルリの地獄図の扱い方についても同様なのだとか(恐ろしさの面を強調しすぎ)。要は扱い方が軽く、一面的にすぎるということか。個人的にもそのあたりはとても共感できる。ブラウンの前作なども、核をなす素材はまさにそういう軽い扱いしか受けていなかった印象だ。ちなみにダンテのとりわけ独自の考案は、煉獄を山の形で示したことにあるのだとか。それは後世にも大きな影響を及ぼしたという。

未知との遭遇のための意思疎通

ちょっと遅ればせの話だが、フランスのクオリティ・ペーパー『ル・モンド・ディプロマティック』の8月号は例年、ちょっと面白い夏休み記事を掲載する。今年のそれはフィン・ブラントン「地球外生命体とのミニ会話ガイド」だった。中国が世界最大級の電波望遠鏡の建造を終えた話に絡めて、まったく未知の知的生命体がいたとして人はどうコミュニケーションを取るかという話を再考し、19世紀の史的な試みを紹介している。どこかの星に宇宙船が不時着したとして、最初のコンタクトを取る段階では、環境にある素材で基本的な幾何学図形をつくり、光による信号を発してみるというのが基本だというが、ではより高度な内容を伝えるにはどうすればよいか。この問題は歴史的にも、太陽系の構成などがわかり、他の星も地球と同じようなものかもしれないと考えられるようになって以来(つまり他の知的生命体がどこかにいると考えられるようになってから)の問題なのだという。著者はこれを情報工学史の裏側として取り上げている。

まず初期コンタクトの問題に、巨大なヘリオスタット(いわゆる集光ミラー)を用いて宇宙空間にまで反射光を送出するというアイデアを出した人物がいた。19世紀のドイツの数学者・天文学者、ガウスだ。当時はほかにも、サハラ砂漠で巨大な穴をほって軽油で満たし、火を点ければ火星人から見られるといった荒唐無稽なアイデアが多数生まれたという。フランス、英国、ロシアなどの科学者がそういったアイデアに名を連ねている、と。けれどもそれらはあくまでファーストコンタクトの段階の発想。とにかくハード面が重要だという立場だ。さらに進んだ信号を送るためには、そのコード化が必要になる。つまりソフト面だ。その嚆矢ではと目される一人が、なんと19世紀フランスの詩人シャルル・クロスだという。今や有名とはいえないこの詩人、実は三色版法(カラー写真)やフォノグラフの初期形態の考案者でもあったという。

で、そのクロスは、ガウスなどが提唱し注目されていたその光信号の発信装置でもって、リズムパターンをもった光を送ることでたとえば数字を伝えることができると考えた。しかも二進法で煩雑に送ることにとどまらず、メッセージ内容の圧縮のアイデアすら出しているのだという。それができれば画像すら送れる、とクロスは考えていた、と。まさに情報工学の黎明だが、一方でそこには着想源もあって(それを挙げないのはフェアではない)、それはジャカール(ジャカード)織機だった(いわばパンチカード式のコンピュータの原型にあたるもの)という。詩と技術と科学の発想とが渾然一体になり、そこからこうして黎明的な技法が捻出されていく。ここに科学史的な醍醐味を見ずにどうするのか、という感じではある。記事はさらに、ランスロット・ホグベンの別様のコード化による簡単な数式を送出するアイデアや、20世紀のハンス・フロイデンタールの記号法などが紹介されている。でも個人的にとても惹かれるのはこのクロスだったりする。2010年刊の全集などもあるようだし、ちょっとその著作を覗いてみたいところ。

ソフトな大上段本?

数学する身体いろいろと作業が山積していたせいで、ブログは三週間ほど放っておいてしまったけれど、やっと少しばかり肩の荷が降りたので、ぼちぼちと復帰しよう。このところマクロな視点で語る基本書のようなものが各分野で出ていて、この二週間ほど少し気分転換的に読んでみた。どれも多少大味というか、チャートっぽい感じではあるのだけれど(そうなってしまうのは概説的であるからだが)、また大上段から構えているわりには語り口がやたらにソフトな点も少々気になるのだけれど(著者がおしなべて若い人たちだからか)、どれも話題作として売れ行きは悪くないようで、ある種の現象として興味深い。たとえば音楽なら、浦久俊彦『138億年の音楽史 (講談社現代新書)』(講談社、2016)、哲学がらみなら三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』(ピー・エヌ・エヌ新社、2016)。さらに数学もある。森田昌生『数学する身体』(新潮社、2015)

この『数学する身体』、とくにいいなと思うのは、論理性の塊というように一般に思われている数学が、実は直観や感性といった非論理的な面と通じていることを、数学史的な逸話(古代ギリシアからルネサンス期、さらに現代数学、チューリング、岡潔などと、一気に駆け抜けている)でもってさりげなく示している点。高校時代あたりのことを振り返ると、個人的に受験数学などは解法パターンでしかないと思っていた。けれども周りにいた、より数学ができる人というのは、そういうパターン思考というよりもむしろ柔軟に、瑞々しい感性でもって、あるいは直観的な洞察でもって問題に立ち向かっていたような印象が強い。個人的にも数学がその意味で発見の喜びに満ちあふれていることをわずかながらでも知ったのはずいぶん後になってからだけれど、同書はもしかすると、そんなふうにパターン思考などで凝り固まっている向き、あるいは文系志向にばかり染まりきっている向きにはなかなかタイムリーな啓蒙の書となるかもしれない(?)。

ライプニッツの数学

ライプニッツ―普遍数学の夢 (コレクション数学史)相変わらずまとまった時間が取れないのだが、とりあえず先週後半くらいから林知宏『ライプニッツ―普遍数学の夢 (コレクション数学史)』(東京大学出版会、2003-2015)を見ている。とりあえず前半を終え、最も分量のある第三章を読み進めているところ。年代順の大きな枠組み(ライプツィヒ期、パリ期、ハノーファー期など)で、ライプニッツの数学との格闘の歩みを辿ろうとする良書。その学問的な関わり方というか、抽象化された記号による一般式にいたる前の、煩雑な計算をひたすらこなしていたであろうあたりの手触り感が、割とヴィヴィッドに伝わってくるような印象。個人的にはその足跡の細かいエピソードやスタンスが興味深いところ。たとえば最初の章での、物と物との関係性へのこだわりであるとか、法学研究を通じて論証の確実性を求めるようになり、数学へと接近していくいった経緯(のちにこれとの関係で確率論が出てくる。これは第三章で扱われる)とか、あるいは記号代数学の形式性を取り入れることに抵抗がなく、虚量(虚数)すら単なる符合(記号)にすぎないと見なしているというあっけらかんとした構え方とか(第二章)。横断的な知性、とでもいうのだろうか?いずれにしても、そんなわけなので、位置解析にもとづく新幾何学をまとめ上げようとする野心をホイヘンスに告げても、ホイヘンスがあまり理解を示してくれない、などという事態が生じるというのも、エピソードとしてなかなかに面白い。そう、平凡ながら改めて想う。ライプニッツは確かに面白い(笑)。