「原因すなわちラティオ」より 5

スアレスの形而上学の大きな特徴は、事物が存在する上での原理(principium)ではなく原因(causa)を決定的に押し上げたことだ、と著者ヴァンサン・カローは言う。もはや形相とか本質とかの自己展開ではなく、存在をもたらす外的な要因こそが問われるのだ、というわけだ。その転換点を、スアレスの著書『形而上学論考(Disputationes metaphysicae)』に読みとろうと(確認しようと)するのが、スアレスを扱う第一章ということになるらしい。

最初にスアレスは、アリストテレス的な四原因の一般概念を探るのだけれど、そこで作用因こそが原因全体の定義を表しうることに着目する。これはつまり、自然学に属する「運動因」を形而上学のほうへと拡張することでもあるわけだ。もともと13世紀以来、作用因は伝統的に運動因の一般概念と見なされてきた。この捉え方の嚆矢はオーベルニュのピエールで、その後ドゥンス・スコトゥスによって作用因が超越論的に(存在の産出因として)展開されるという経緯があるという。自然学的な原因の見方は、存在する事物の物質性に重きを置き、運動や変成を吟味する。一方の形而上学的な見方では、存在する事物は抽象的に捉えられ、そこでの原因は存在に結びつけられて検討される。

スアレスはこのスコトゥス的な方途を取り、こうして原因の理(ratio causae)は存在の理(ratio entis)に結びつけられる。著者によると因果関係と存在論の結びつきは、(1)存在するものに参与する要因として、(2)存在するものの(超越論的)属性として、(3)形而上学的考察の対象として、それぞれ議論される。とくに(2)の属性(厳密には疑似属性)としての議論では、スアレスは原因と結果の関係を「存在の分割」概念(「無限」「有限」の区別などと同じような)の一つであると捉え、しかも原因の理をその分割に先立つものと考えていて、ここから、因果関係という関係性は、存在を成立させる根源的な要因(存在の理)にもなっている、と著者は言う。

うーむ、自然学的な原因が形而上学的な原因の議論に、しかも作用因という形で拡張されていく契機というのは、ここまででは今一つ明瞭ではないような気もするが、ともかく先に進むことにしよう(笑)。