ジャン・デリダ『身体の誕生』(Jean Derrida, “La Naissance du corps (Plotin, Proculus, Damascius)”, Galilée, 2010 ) を読み始める。ガリレー社の著者インデクス によると、ジャン・デリダはジャック・デリダの次男坊で67年生まれ。親父どのとはやや違って、とても分かりやすく堅実な読みを披露してみせる(笑)。100ページ強の小著なのだけれど、とりあえずざっと前半に眼を通す。プラトンが『国家』その他で語る魂をめぐる神話は、プロティノスの示す形而上学と基本的なところで齟齬をきたしていて、ではプロティノスはそれをどう処理しているのかというのが基本的な問題設定。たとえば、神話で語られる「身体から離れる魂」と、不変・不動とされる魂とがそもそも矛盾してはいないか、というわけだ。で、著者によるとプロティノスの回答は次のようなものになる。その両者は別物なのであり(このあたり、はるか後世の、能動知性・可能知性みたいな話にもなっているのだけれど)、個体に宿る魂というのは、不変の魂の拡散とか疎外などではなく、それはその不変の魂の「遍在」がもたらす「像」にすぎない、分割されて個々に宿るように見えるのは、あくまでそれが像だからなのだ、と……。
一方、この二面的な性格をもった魂の概念に、プロクロスは異を唱えるのだという。プロクロスは、魂は全面的に地上世界に降りてくるとし、神話はあくまで一つのヴィジョンであって字義通りのものではないとの立場を取る。乗り物(オケーマ:第一の身体)の概念は、そうした降臨、あるいは地上世界との仲立ちを支えるものだというわけだ。総じて、天上世界との連続性を重く見るプロティノスと、その断絶を強調するプロクロスの対比が、なかなか鮮やかに描き出されている。お見事。
後半は、肉体を離れた魂が向かう「場所」、霊魂移入、誕生について、同じく神話と教義体系との齟齬の観点から議論が展開する模様。
昨日のグーゲンハイム反論本から再び。グーゲンハイムのテーゼの一つは、12世紀にモン・サン・ミッシェルの修道士、ヴェネツィアのジャコモ(ジャック)が、その地でアリストテレス作品を他に先立って全訳していたというものなのだけれど、同書ではこのテーゼを、ステン・エベセン(Sten Ebbesen)という研究者が詳細に検討している。まず、アリストテレスの『分析論後書』のラテン語翻訳者としてジャックの名前に触れている記載は3つほどあるという。文体の分析から、その同じ人物は『自然学』『魂について』『自然学小論集』も訳しているらしいとのこと。
そのジャックの伝記は、アンセルムスによって紹介されているという。それによると、若いころはコンスタンティノポリスにいて、さらに後にラベンナの大司教を擁護する法解釈などを記していて、さらにみずからを「ヴェネツィアのギリシア人ジャコモ、哲学者」と名乗っているという。ところがもしこの人物が上の訳者と同一であるとすると、1140年代にイタリアに渡り、そこで教師になっているという(パリのアルベリック師なる人物と、『詭弁論駁集』をめぐって対立。ジャコモはビザンツはエフェソスのミカエルのギリシア語注解を活用しているという)。で、その後はまたコンスタンティノポリスに戻っている、と。うむ、モン・サン・ミッシェルには行った形跡なしなのか……。
グーゲンハイムが依拠するのはミニオ=パルエロの研究だというけれど、そこで扱われていたアヴランシュ市立図書館所蔵の2つのジャック訳アリストテレス写本(もとはモン・サン・ミッシェルにあった?)は、片方は13世紀のものであることがわかっているといい、ミオニ=パルエロの考えているような、ロベール・ド・トリニ(とロベール司教なる人物)がジャックの翻訳の普及に一役買い、ソールズベリーのジョンすらもその写本を求めた、という話の「当の写本」ではない可能性のほうが高いらしい。そもそも当時はボエティウスの翻訳が再発見される頃合いでもあり、ジャック訳(大半は現存しない)は評価がすぐに下がって葬られた可能性もあるという。
ミニオ=パルエロは、上の2つの訳本がモン・サン・ミッシェルからのものだと考えただけだというが、グーゲンハイムはさらに、写本の保管場所=写本の製造場所(ないしは発注者の住処)という短絡的な思考でもって強引に論を展開している、とされる(確かにそういう印象はあったっけ)。もともとの持ち主が修道院に入ったために、修道院の蔵書になるケースもあるということで、実際はそう簡単ではないという。なるほどねえ。こんなわけで、グーゲンハイムの論はまったくの砂上の楼閣だというわけだけれど、エベセンは最後に、ジャコモ訳の『分析論後書』自体は当時標準的なテキストと見なされるほど重要だったものの、ただ不幸なことに、アリストテレス思想の本格流入(大学で普通に教えれるようになるのが1220年から30年)以前だったために参考資料も乏しく(アヴィセンナの『治癒の書』が伝わるのが12世紀末、アヴェロエスの注解が1230年代以後)、あまりに難解とされたのだった、と述べている。
タイトルに惹かれて購入してみたら、例の論争の的となったグーゲンハイム本への反論本だったのが、マックス・レイボビッチ編『キリスト教圏の中世イスラム – 科学とイデオロギー』“L’Islam médiéval en terres chrétiennes – science et idéologie”, ed. Max Lejbowicz, Septentrion, 2008 ) 。しかもこちらは、以前の『ギリシア人、アラブ人と私たち』よりもはるかに直接的で、収録された論考がすべてグーゲンハイム批判というすさまじさ。うーむ。闇雲にカートに入れてしまったなあ、またやってしまったか(苦笑)、と最初は思ったのだけれど、読み始めてみるとそれなりに面白かったり(笑)。とくにジョン・トラン(John Tolan)の「モン・サン・ミッシェルのアリストパネス?」が、とても皮肉が効いている感じ。アイルランド賞賛という偏りが指摘されていたトマス・ケイヒルの『聖者と学僧の島』については、ケイヒル本人が作家だということもあり、しかも同郷人たちの士気を高めるために書いたということを公言していることもあって、多少大目に見てもいいかな、みたいなスタンスなのだけれど、グーゲンハイムに対しては、「一体誰の士気を高めているんだ?最近の研究では地中海世界の文化の複雑さが指摘されているのに、この単純化した議論は何だ?」みたいに(文面はこんな感じではないけれど)批判し、そこからおもむろに、実はグーゲンハイムにいたる「西欧のイスラム嫌い」は長い系譜があるのだという話に入っていくあたりが、なんとも「巧い」(?)。あのペトラルカも、ある詩句で公然とアラブ人たちを攻撃しているのだという。アヴェロエスなんか狂犬扱いなのだそうだ。15世紀から16世紀にかけては医学界で、アラビア由来の医学教科書(アヴィセンナの『医学綱領』など)をやめてガレノス、ヒポクラテスの純粋な伝統に回帰したほうがよいのでは、という議論が起きるという。当然ながら、そういうアラビア医学を擁護する人々もちゃんといて、結局は文化をめぐる戦いが綿々と繰り返されてきただけだった、と。こうしたことからすると、グーゲンハイムやその後の批判も、そうした長い「伝統」の一端に位置づけられるのだろう、と醒めた眼で(笑)締めくくってみせる。
投稿ナビゲーション
δελτογράφος <剳記> – deltographos.comの投稿セレクション・アーカイブ