プレスター・ジョン

もう大晦日。今年を締めくくる一冊はウンベルト・エーコ『バウドリーノ(上・下)』(堤康徳訳、岩波書店、2010)。少し前に読了していたのだけれど、改めて。まず冒頭のたどたどしい言葉で綴られる主人公の文章から引き込まれる。てっきり、しばらくはこの文章が精緻なものになっていくプロセスを段階的に読まされるのかなと期待したのだけれど……それはなかった(苦笑)。でも、その後の物語は主人公バウドリーノがニケタス・コニアテス(ビザンツの実在の歴史家)に聴かせる語りとして進行する。前半の舞台はフリードリヒ1世の宮廷。物語を引っ張るのは司祭ヨハネ(プレスター・ジョン)の王国の伝説。12世紀に出回ったという司祭ヨハネの手紙のいきさつとかのほか、アレッサンドリア(ってエーコの生まれた町)の来歴とか、宿敵登場とかいろいろなエピソードが満載して飽きさせない。ところどころに、やや時代を無視して挿入されているエピソード(真空の存在とかインペトゥス理論めいた議論など)も、とても自然に溶け込んでいる。後半にいたると、聖杯話から一挙に司祭ヨハネの王国探しに話がなだれ込み、夢想譚の趣きに。東方の異世界の描写がやや饒舌だけれど、終盤は加速していって最後はオチ(エーコはやはりこういうのがお得意)も控えている。うーむ、お見事。個人的には前半の歴史もの的な部分のほうが気に入っているけれど……。

バウドリーノの師匠とされた実在のフライジングのオットー(Otto Frisingensis)が司祭ヨハネについて記したという「二つの国の年代記(Chronica sive Historia de duabus civitatibus)」がネットにないかと思ってざっと調べたのだけれど、どうも見あたらない。残念。書籍を入手するしかないかなあ。一方、教皇アレクサンデル3世が1177年に司祭ヨハネに送った書簡もあるといい、これはネットで手に入る「書簡・勅令集」にも入っている。うーむ、やはり東方のイメージというのは西欧中世人の心性を語る上で避けては通れない問題。これは個人的にもそのうち検討してみたいところではあるなあ、と。

日本語の哲学?

年末モードなので、積ん読からいくつか引っ張り出して読んでいるところ。そのうちの一つが、長谷川三千子『日本語の哲学へ』(ちくま新書、2010)。最初は和辻哲郎論かと思いきや、中盤でパルメニデスの存在論(とヘーゲル批判)にいたり、そこから一転して和辻とハイデガーへ戻り、最後には日本語の「こと」「もの」論になるという構成なのだけれど、それらすべてを貫くのが、哲学的思考と言語の関係性をめぐる問題提起。うーむ、確かに広い視野で大きな問題に取り組むあたりは大胆……でも個々の議論はどうなのか、という疑問も喚起される。とりわけ後半の「こと」と「もの」の議論。たとえば、「もの」「こと」が万葉集と現代語でほぼ同じだとしながら、一方では「もの」のニュアンスとして「無のかげ」が万葉集のほうに色濃く出ている、みたいな話が出てくるけれど、これではそれらが同じなのか違うのか微妙に曖昧になってしまう。また、「もの」「こと」が終助詞として使われる場合も、抽象語として使われる場合も同じ意味が通底しているという話(つまり両者は相互に交換できないということ)も、コロケーション的な決まりごとにすぎないかもしれないことを、あえて意味論として持ち上げているのでは、みたいな気もする。また、その意味論としての持ち上げの議論を担保しているのは、国語学者らの議論なのだけれど、さらに先に進んで「こと」が事と言に通底するという話になると、それらの著者たちも一蹴されてしまい、何に依拠しての論なのか今一つ分からなくなってくる。しかも「言語の堕落」みたいなよくわからない話も出てきたりして、なにやらある種イデオロギー的な彩りが濃くなってくるような気も……。うーん、ざっと読んだだけなので、何か読み落としているのかもしれないけれど、そんなわけで、なにやらビミョーに落ち着かない読後感。

年末はザ・シックスティーン

クリスマスから新年のこの時期は、やはり宗教曲がよく合う。というわけで今年の一枚は、ザ・シクスティーンによる『ヘンデル:ディクシット・ドミヌス、ステファーニ:スターバト・マーテル』(Handel : Dixit Dominus: Christophers / The Sixteen steffani: Stabat Mater)。実はこれ、去年の暮れくらいにゲットしてずっと積ん聴(というか埋まっていた……)だったりしたもの。一年後に聴けて、しかも聴いていて幸せな気分に浸れるという個人的にはまさに感動もの(笑)の一枚となった。演奏するのはハリー・クリストファー率いるザ・シックスティーンも久々だけれど、当然ながらそのクオリティの高さは言うことなし。収録曲はアゴスティーノ・ステファーニ(1654 – 1728)の「スターバト・マーテル」と、ヘンデルの最初期のころの「ディクシット・ドミヌス」。ステファーニってよく知らなかったのだけれど、ヘンデルより多少歳の行った、ほぼ同年代の作曲家。6声による華麗な教会音楽なのだけれど、どこか「音のある静謐」という矛盾形容を想わせる(?)素晴らしい作品だ。ヘンデルのほうも、これは後年のものよりずいぶんと若々しい、どこか複雑で挑戦的な曲想。こちらは5声。

断絶の歴史観?

話題作らしい佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010)を読む。著者に倣うなら、読むというのもおこがましい読みだけれど(苦笑)……。革命というか、歴史の大きな転換点の端緒には、自己の異化にまで及ぶような強烈な読書体験というものがあった、それを今一度復権させようというのが全体的な流れということになるのかしら。主に取り上げられるのは、ルター、ムハンマド、そして「中世解釈者革命」。いずれについても、書を読む、しかも徹底的に読むという構え方が、後に大きな変革をもたらすきっかけになったという話でまとめられ、その場合の読み方自体がテーマとして取り出されている。なるほど、歴史をそうした断絶でもって読み解くというのは、同書の刺激的・挑戦的な物言いとも相まって、注目の著者ならではの気炎という感じもする。でもその一方で、同じ歴史的な事象はより連続的にも捉えられる。断絶というのはあくまで後知恵にすぎず、後から加えられる様々な付帯的状況によって断絶の効果が演出されていったのであって、たとえば聖書の徹底した読み直しを実践していたのはルターだけではなかったではないか、みたいに。

一般的に、先鋭的な思想や批評はその華々しさもあって断絶に重きを置くのに対し、実直な史学などは連続のほうに重きを置く(かな?)。多くの場合、断絶を喝破してみせる刺激的な言説のあとには、そうした連続的な視座による事象の検証が続く……。そういう観点から眺めると、同書の要になっている「中世解釈者革命」というものの実情はどうなのか、という部分が若干気になってくる。これはルジャンドルがもとだそうだけれど、ルジャンドル自身がフランス思想的な物言い(あるいはフランス的放言?)を駆使する人物という印象もあり、個人的には、その文章も慎重に見ていく必要がありそうな気がしている。グラティアヌス教令集に結実する教会法の鍛え上げが、ユスティニアヌス法典の「再発見」によると果たして言い切れるのかどうかとか、微妙な気がする。ローマ法自体はある意味早い段階から教会法に取り込まれる形で細々と伝えられていたとも言われるし。

うむ、いずれにしてもグラティアヌス教令集もある程度ちゃんと読まないとなあ、と改めて思う。ちなみにこのグラティアヌス教令集(Decretum Gratiani)、ネットでならたとえばこのサイトでダウンロード可。またユスティニアス法典(Codex Justinianus)はたとえばこちらScribdのサイトなどに。

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