予言がらみということで、少し前に入手していたアルベルトゥス・マグヌス『予言についての問い』(Alberto Magno, “Quaestio de prohetia – Visione, immaginazione e dono profetico”, a cura di Anna Rodolfi, Edizioni del Galluzzo, 2009)も眺め始めている。予言の諸相についてアルベルトゥスが記した書。本文も面白そうだけれど、まずもってアンナ・ロドルフィによる序文がなかなか勉強になる。特にその前半は、予言をめぐる考察小史という感じ。スコラ学的に予言についての考察が増大するのは13世紀。とはいえそこに至るには長い前段階がある。思索の嚆矢はやはりアウグスティヌス。「ヴィジョン」の3分類(身体的、精神的、知的)に呼応して、予言もまた3分類されるというわけなのだけれど、こうした視覚を中心とする考察に対して、のちのカッシオドルスは、むしろその告知の面を重視し、予言者の資質などをめぐる考察を展開してみせる。大グレゴリウスになると、予言者とは未来を見通す人のことではなく、むしろ神的な啓示・秘儀を伝えることのできる者と定義し、こうして予言には未来だけでなく、過去や現在についての言説も含まれるようになる。
占星術や運命論などに関するトマス・アクィナスの小論を集めた仏訳アンソロジー本をゲットする(Thomas d’Aquin,”L’Astrologie, Les Opérations cachées de la nature, Les sorts”, Les Belles Lettres, 2008)。訳と序文はブリュノ・クイヨー。で、まずはその序文の前半部分から。基本線として挙げられているのは、中世の自然観は観察とは無縁ではないものの、やはり探求するのは具体的な現象などではなく、そうした具体物に共通するもの(概念・普遍)のほうだということ。アルベルトゥス・マグヌスのように具体のほうへと歩み寄る論者もいるけれど、トマスは端的にそういう抽象のほうを向いている、と。トマスの場合、astrologiaという用語をほとんど占星術と天文学で使い分けていないというが、このあたりも何かそうしたスタンスに関係していそうな感じも(?)。で、このastrologie、両者をひっくるめる形でトマスは自然学の一部と見なしているようなのだけれども、関心はあくまで自然において表出している抽象的なものということになる。astrologieも、アリストテレスが著書で触れるタレスが用いているような、収穫の予測など気象学と入り交じった学知として用いられ、星辰の影響はあくまで自然物に対してであって、人間の自由意志には及ばないという立場を取る。