アルベルトゥス:「予言についての問い」

予言がらみということで、少し前に入手していたアルベルトゥス・マグヌス『予言についての問い』(Alberto Magno, “Quaestio de prohetia – Visione, immaginazione e dono profetico”, a cura di Anna Rodolfi, Edizioni del Galluzzo, 2009も眺め始めている。予言の諸相についてアルベルトゥスが記した書。本文も面白そうだけれど、まずもってアンナ・ロドルフィによる序文がなかなか勉強になる。特にその前半は、予言をめぐる考察小史という感じ。スコラ学的に予言についての考察が増大するのは13世紀。とはいえそこに至るには長い前段階がある。思索の嚆矢はやはりアウグスティヌス。「ヴィジョン」の3分類(身体的、精神的、知的)に呼応して、予言もまた3分類されるというわけなのだけれど、こうした視覚を中心とする考察に対して、のちのカッシオドルスは、むしろその告知の面を重視し、予言者の資質などをめぐる考察を展開してみせる。大グレゴリウスになると、予言者とは未来を見通す人のことではなく、むしろ神的な啓示・秘儀を伝えることのできる者と定義し、こうして予言には未来だけでなく、過去や現在についての言説も含まれるようになる。

13世紀には、予言を認識論的に捉えようとする議論が出てくるという。それに影響を与えたのはアヴィセンナ。特に問題になったのは想像力という側面だという。さらに預言を神からの発出と論じるマイモニデス。こうして預言と想像力(というか像)の関連が西欧でも取り上げられるようになる。かくしてアルベルトゥス登場。彼は自然的預言と超自然的預言の差異を、哲学者と聖人の差異、つまり方法論的な違いに見出そうとするのだという。さらに夢(予知夢)と予言の違いについての論もあり、アラビア系思想が予知夢を重視し、予言とそれとはともに魂が天球の影響を受け止める二つの様態だとするのに対して、アルベルトゥスは予知夢を預言の堕落した形態として批判的に見ているという。上の二人とは違って、予言を神学にもとづいて捉えようともしていないのだとか(あくまで自然学的事象という立場?)。ふーむ、やはりアルベルトゥスはアヴィセンナなどをただ受け入れるのではなく、批判的に構えているというわけか。その具体的な有様をちょっとだけ覗いてみたいところだ。

トマスの占星術観とか

占星術や運命論などに関するトマス・アクィナスの小論を集めた仏訳アンソロジー本をゲットする(Thomas d’Aquin,”L’Astrologie, Les Opérations cachées de la nature, Les sorts”, Les Belles Lettres, 2008)。訳と序文はブリュノ・クイヨー。で、まずはその序文の前半部分から。基本線として挙げられているのは、中世の自然観は観察とは無縁ではないものの、やはり探求するのは具体的な現象などではなく、そうした具体物に共通するもの(概念・普遍)のほうだということ。アルベルトゥス・マグヌスのように具体のほうへと歩み寄る論者もいるけれど、トマスは端的にそういう抽象のほうを向いている、と。トマスの場合、astrologiaという用語をほとんど占星術と天文学で使い分けていないというが、このあたりも何かそうしたスタンスに関係していそうな感じも(?)。で、このastrologie、両者をひっくるめる形でトマスは自然学の一部と見なしているようなのだけれども、関心はあくまで自然において表出している抽象的なものということになる。astrologieも、アリストテレスが著書で触れるタレスが用いているような、収穫の予測など気象学と入り交じった学知として用いられ、星辰の影響はあくまで自然物に対してであって、人間の自由意志には及ばないという立場を取る。

また、トマスはときに最高天(オーベルニュのギヨームなどが示す、神の座としての天)について触れることもあるけれど、それはあくまで神学の枠内、もしくは注解としてであり、自然学そのものはそれとはっきりと区別されているという。ふむふむ、このあたりは確かにそんな感じがする。天の構成の話や天球の運動、分離実体(つまり天使や悪魔)の役割などが語られるのは神学の枠内ということになる。

「原因すなわちラティオ」より 5

スアレスの形而上学の大きな特徴は、事物が存在する上での原理(principium)ではなく原因(causa)を決定的に押し上げたことだ、と著者ヴァンサン・カローは言う。もはや形相とか本質とかの自己展開ではなく、存在をもたらす外的な要因こそが問われるのだ、というわけだ。その転換点を、スアレスの著書『形而上学論考(Disputationes metaphysicae)』に読みとろうと(確認しようと)するのが、スアレスを扱う第一章ということになるらしい。

最初にスアレスは、アリストテレス的な四原因の一般概念を探るのだけれど、そこで作用因こそが原因全体の定義を表しうることに着目する。これはつまり、自然学に属する「運動因」を形而上学のほうへと拡張することでもあるわけだ。もともと13世紀以来、作用因は伝統的に運動因の一般概念と見なされてきた。この捉え方の嚆矢はオーベルニュのピエールで、その後ドゥンス・スコトゥスによって作用因が超越論的に(存在の産出因として)展開されるという経緯があるという。自然学的な原因の見方は、存在する事物の物質性に重きを置き、運動や変成を吟味する。一方の形而上学的な見方では、存在する事物は抽象的に捉えられ、そこでの原因は存在に結びつけられて検討される。

スアレスはこのスコトゥス的な方途を取り、こうして原因の理(ratio causae)は存在の理(ratio entis)に結びつけられる。著者によると因果関係と存在論の結びつきは、(1)存在するものに参与する要因として、(2)存在するものの(超越論的)属性として、(3)形而上学的考察の対象として、それぞれ議論される。とくに(2)の属性(厳密には疑似属性)としての議論では、スアレスは原因と結果の関係を「存在の分割」概念(「無限」「有限」の区別などと同じような)の一つであると捉え、しかも原因の理をその分割に先立つものと考えていて、ここから、因果関係という関係性は、存在を成立させる根源的な要因(存在の理)にもなっている、と著者は言う。

うーむ、自然学的な原因が形而上学的な原因の議論に、しかも作用因という形で拡張されていく契機というのは、ここまででは今一つ明瞭ではないような気もするが、ともかく先に進むことにしよう(笑)。