「原因すなわちラティオ」より 6

因果関係と存在論の結びつきの続き。因果関係を形而上学的な考察対象に据えるとなると(前回の(3))、そこには大きな躓きの石が。形而上学は存在の成立について考察するわけなのだけれど、すると存在をその原因との関係で考察しなくてはならなくなる。けれども、ここで形而上学が考察する存在は神の存在まで包摂するものとされる。一方で神には原因はないとされる。とするなら、その学自体のもくろみが頓挫することになるのでは?、というわけだ。さあ、どうする?

スアレスはなんとも絶妙な(?)回答をひねり出す。「なるほど確かに個別の事象には個別の原因があるのに対して、神には原因はない。けれども事象には、個別のラティオとは別に、みずからの存在をもたらす別のラティオもある」というのだ。そしてそのラティオは、個別の事象にも共通するラティオであり、神にもそのラティオはある(というか、神がそのラティオをなしている(?))。「神には原因はないけれどもラティオはある」……こう宣言することによって、神は一気に形而上学の考察対象に入ってくる。うーむ。存在ならぬラティオの一義性と言わんばかりの議論か。著者いわく、こうしてスアレスは存在の一義性を標榜してトマスと袂を分かち、同時に原因論を存在の一義性に組み入れてスコトゥスとも袂を分かつ……。スアレスは両巨人の合間の細い道をたくみに進んでいくかのようだ。

ラティオとは何かというと、要するにこれは理(ことわり)、つまり認識や存在を媒介する(司る)知的な働き(このあたり、ちょっと微妙なのだけれど……)。スアレスにいおいてはこのラティオこそが「原因のような価値を持つ」(著者)とされる。それを原理と称する場合(つまり形而上学で扱う場合)には、(1)認識上の原理(複合原理)と(2)存在上の原理(非複合原理)とに分かれるのだけれど、この後者はさらに、(2a)その原理が真に原因とイコールになる場合と、(2b)原因と直接イコールではないものの、原因に類するとされる場合とに分かれる。形相因、目的因はどうやらこの2bに該当するらしい(質料因も?)。2aは作用因ということになる……のか?いずれにしても、こうして神を含むいっさいのものには、少なくともこの2bが適用され、神もまたそのラティオを介して認識や論証の対象になる、という仕掛けだ。

デューラー版画・素描展

今週はちょっと中休み。そんなわけで念願の「デューラー版画・素描展」(@国立西洋美術館)に足を運ぶ。日中のせいかあまり人もおらず、ゆっくりと見て回れた。今回の展示の目玉はなんといっても第一部の宗教画の連作。木版画の「聖母伝」「大受難伝」は言うに及ばず、「小受難伝」も描写の差異などがとても興味深いし、「銅版画受難伝」の細やかさも素晴らしい。芸大美術館の「黙示録」の連作を見逃してしまったのがやや悔やまれる、か(苦笑)。第二部の肖像画では、唯一の木炭画「ある女性の肖像」の写実性に打たれる(笑)。あと、ど迫力の「マクシミリアン1世の凱旋門」。文字通りの紙による建造物。こういうのが平然と出版されていたというのが凄い。また、本来は凱旋門に連なる連作「凱旋行進」の最後の部分だったものが、後に別作品として独立したものだという「マクシミリアン1世の凱旋車」も感動もの。各所に散りばめられた寓意の数々、なかなかに豪勢だ。第三部自然では「リュートを描く人」と「『人体均衡論』」が書の形での出展。しめくくりは国立西洋美術館所蔵の「騎士と死と悪魔」「メランコリアI」「書斎の聖ヒエロニムス」という有名どころ3連打。全体としては、メルボルンのヴィクトリア美術館の所蔵品と、国立西洋美術館の所蔵品とが大半を占めている。遠近法の妙を楽しむもよし、写実性に改めて驚くもよし、線画の細やかさに見入るもよし、といろいろに楽しめる。もちろん、15世紀末から16世紀初めの歴史に思いを馳せるもよし。

プフィッツナー

何回かに分けてやっと一通り見終えた、ハンス・プフィッツナーの歌劇『パレストリーナ』のDVD。ジャケットの絵からもお分かりのように、結構キッチュな感じの舞台。最近はやっぱりこういうのが多いのかしらね。一応これは2009年のミュンヘン国立歌劇場での公演。ミュンヘンはこの『パレストリーナ』が初演されたゆかりの都市。プフィッツナーはいちおう後期ロマン派に括られている(来年の「熱狂の日」とかで取り上げられるかしらん?)作曲家だけれど、個人的にはほとんど聴いたことがない(苦笑)。一応これはルネサンス期のパレストリーナを描いたものということで、かなり興味をそそられた(曲の引用とかあるのかと思ったけれど、ちょっとなさそうな感じ?)。圧巻なのは第一幕の終盤。かみさんを亡くして失意のパレストリーナがミサ曲を頼まれるも躊躇していると、霊感(天使たち)が舞い降りて作品が出来上がってしまう。そのあたりの音のうねり具合がなんともいいなあと。二幕目はトレント公会議の場面。紛糾するその会議の描き方もなかなか面白い。三幕目は、ミサ曲が大成功を収めた報が伝えられるパレストリーナなのだけれど、そこでの大写し(DVDならではですね)になるパレストリーナ(クリストファー・ヴェントリス)の微妙な表情がまたなんとも言えない余韻を残す……。成功したとはいえ、時代の変化の中になにやら取り残されつつあるという違和感のようなものが、浮かび上がっている感じ(?)。指揮はシモーネ・ヤング。序曲とか実に聴かせる。演出はクリスチャン・シュトゥックル。オーバーアマガウの受難劇なども手がける演出家とのこと。ある意味奇妙な、悪夢のような舞台でもある。

プセロス「カルデア神託註解」 10

¨Ἀστέριον προπόρευμα σέθεν χάριν οὐκ ἐλοχεύθη¨ · τοῦτ᾿ ἔστιν · οἱ προηγούμενοι τῶν ἀπλανῶν ἀστέρων ἢ τῶν πλανωμένων οὐ χάριν σοῦ τὴν ὑπόστασιν ἔλαβον. ¨Αἴθριος ὀρνίθων ταρσὸς πλατὺς οὔποτ᾿ ἀληθής¨ · τοῦτ᾿ ἔστιν · ἡ διὰ τῶν πετομένων ὀρνίθων ἐν τῷ ἀερὶ τέχνη, ἣν δὴ καὶ οἰωνιστικὴν ὀνομάζουσιν, οὐκ ἔστιν ἀληθής, περιεργαζομένη τὰς πτήσσεις αὐτῶν καὶ κλαγγὰς καὶ καθέδρας. Ταρσὸν δὲ πλατὺν τὴν τῶν ποδῶν αὐτῶν λέγει βάσιν πλατεῖαν οὖσαν, διὰ τὴν τῶν δακτύλων ἔκτασιν διειργομένων τῷ μεταξὺ δέρματι. ¨Οὐ θυσιῶν σπλάγχνων τε τομαί · τάδ᾿ ἀθύρνατα πάντα¨ · τοῦτ᾿ ἔστιν · ἡ θυτικὴ καλουμένη ἐπιστήμη, ἤγουν ἡ διὰ τῶν θυσιῶν τῶν μελλόντων ζητοῦσα τὴν πρόγνωσιν, καὶ ἡ διὰ τῆς τομῆς τῶν σπλάγχνων τῶν σφαζομένων ἱερείων, παίγνιά εἰσιν ἄντικρυς. ¨Ἐμπορικῆς ἀπάτης στηρίγματα¨ · τοῦτ᾿ ἔστιν ´ ἀφορμαὶ κέρδους ἀπατηλαὶ. Μὴ τοίνυν, φησί, ταῦτα πολυπραγμόνει σὺ ὁ μαθητευόμενος ὑπ᾿ ἐμοῦ, ¨μέλλων εὐσβίης ἱερὸν παράδεισον ἀνοίγειν¨.

「星辰の進行はあなたの徳から生まれたのではない」。これはつまり、恒星や惑星を導くものは、あなたの徳を支えとしたのではないということである。「空を渡る鳥の大きな水かきは決して本物ではない」。これはつまり、空を飛ぶ鳥に由来する「鳥占い」と呼ばれる技法は本物ではなく、鳥の飛行や鳴き声、佇まいを注意深く観察するだけだということである。鳥の足にある「大きな水かき」とは、その大きな足のことを言っているのだが、それはそれぞれの指が、間に皮膚を挟んで分かれているためである。「犠牲獣の内蔵の切り分けも同様だ。それらはすべて慰み物」。これはつまり、供犠と称される技法、つまり犠牲でもって、あるいは屠った犠牲獣の内臓を切り分けることで未来を予見しようとする技法は、まぎれもなく戯れにすぎないということである。「偽の売り買いの媒体でしかない」。これはつまり、利益の幻想を抱く機会だということである。神託は、「ゆえに私のもとで学んだあなたは、それらのことで心を悩ませてはならない」と説いているのである。「信仰の聖なる楽園を開こうと望むなら」と。

この一週間のtweets : 2010-11-29から2010-12-05