Ἱερὸς δὲ παράδεισος εὐσεβείας κατὰ Χαλδαίους, οὐχ ὃν ἡ τοῦ Μωυσέως βίβλος φησίν, ἀλλ᾿ ὁ λειμὼν τῶν ὑψηλοτέρων θεωριῶν, ἔνθα τὰ ποικίλια τῶν ἀρετῶν δένδρα καὶ τὸ ξύλον τὸ γνωστικὸν καλοῦ καὶ πονηροῦ, τοῦτ᾿ ἔστιν ἠ διακριτικὴ φρόνησις ἡ διαιροῦσα τὸ κρεῖττον ἀπὸ τοῦ χείρονος, καὶ τὸ ξύλον τῆς ζωῆς, τοῦτ᾿ ἔστι τὸ φυτὸν τῆς θειοτέρας ἐλλάμψως τῆς καρποφορούσης τῇ ψυχῇ ζωὴν ἱεροτέραν καὶ κρείττονα. Ἐν τούτῳ γοῦν τῷ παραδείσῳ καὶ αἱ τέσσαρες γενικώταται τῶν ἀρετῶν ἀρχαὶ δίκην ποταμῶν ῥέουσιν · ἐν τούτῳ τῷ παραδείσῳ καὶ ἀρετὴ καὶ σοφία καὶ εὐνομία φέρονται. Ἔστι δὲ ἀρετή, μία μὲν ἡ γενική, πολλαὶ δὲ αἱ κατ᾿ εἴδη διαιρούμεναι. Σοφία δέ ἐστιν ἡ τούτων ἁπάντων περιεκτική, ἣν ὡς μονάδα ἀόριστον ὁ θεῖος προβάλλεται νοῦς. Τῶν δὲ τοιούτων Χαλδαϊκῶν παραινέσεων τὰ μὲν πλείω καὶ ταῖς καθ᾿ ἡμᾶς εἰσηγήσεσι κατάλληλά πώς εἰσι, τινὰ δὲ καὶ ἠθέτηται. Τοῦ γὰρ καθ᾿ ἡμᾶς δόγματος διαρρήδην φάσκοντες διὰ τὸν ἄνθρωπον τὴν ὁρατὴν γεγενῆσθαι κτίσιν, ὁ Χαλδαῖος τὸν λόγον οὐ παραδέχεται, ἀλλ᾿ αἰδίως τίθεται κινεῖσθαι τὰ κατ᾿ οὐρανόν, ἔργῳ ἀνάγκης καὶ οὐχ ἕνεκεν ἡμῶν.
カルデア人における信仰の聖なる楽園は、モーセの書が語る楽園ではなく、至高の観想の草原である。そこでは、徳に彩られた様々な色の木々のほか、善悪を知るための木、つまりより優れたものとより劣ったものとを見分ける分別的洞察、さらには生命の木、つまり魂により崇高で優れた生命の実をもたらす神の光の植物がある。いずれにしてもその楽園では、徳の四つの基本原理が川のように流れている。その楽園には、徳、賢慮、良き秩序が芽吹く。徳は、類としては一つながら、種においては分かれて多となる。賢慮はそのすべてを包み込み、それは神の知性がもたらした無定型のモナドのごとしである。カルデア神託が説くものの大半は、そのまま私たちの助言にも対応するが、なかには斥けられたものもある。というのも、私たちの(キリスト教)教義では、眼に見える被造物は人間のために創られたと明示されているのに対して、カルデア人はその説明を受け入れず、天空の下にあるものは必然の作用により永劫にわたり動き続け、私たちのためにあるのではないとしているからだ。
医療占星術がらみで、プトレマイオスの『テトラビブロス』(Loeb版:Ptolemy, “Tetrabiblos”, trans. F.E.Robbins, Loeb Classical Library, 1940 – 1998 )を改めて読み始める。数年前に一度眼を通した第一巻も、中身は結構忘れてしまっている(笑)が、今回は出生占星術についての第三巻を中心に見ていこうとしているところ。実はそれも少しは読みかけていたようで、多少の書き込みはあるのだけれど……(苦笑)。前回は漠然と眼を通しただけだったからなあ。やはりなんらかの問題意識のもとに読まないと、ちゃんと頭に残らんっすね。ま、それはさておき、同書に関連して、ネットで公開されている報告、山本啓二「中世における「テトラビブロス」の伝承の研究」 も見てみた。2006年の報告。写本の系譜を丹念に追っている労作に、思わず頭が下がる思い……。Loeb版の序で触れられているギリシア語写本やラテン語訳についての解説が更新された感じで嬉しい。とりあえず確認されている最古のラテン語訳は、フナインのアラビア語訳(正確には改訂版?)を1138年にティヴォリのプラトーネが訳したもの、ということでよいのかしら。そういえば、12世紀のクレモナのゲラルドゥスの訳とかいうのもあるといった話もあったような……?山本氏の報告では、1206年の訳者不明のラテン語訳というのにも触れている。
うーむ、個人的には16世紀にバーゼルで出版された版が残っているらしいポルピュリオスの注釈書(校訂版があるという)、さらに同じく16世紀バーゼルのプロクロスの注釈書(パラフレーズ)を見てみたいものだ……と思っていたら、とりあえずGoogle検索で一番上にくるJ.M.Ashmand訳のテトラビブロス (1822年)って、もとになっているのが1635年のライデンの版、つまりプロクロスのパラフレーズ版なんだそうな。おおー、素晴らしいでないの。ほとんど灯台もと暗しって感じ。
去る8日は聖母マリアの無原罪の御宿りの祝日。フランスはリヨンなどでは窓辺にロウソクを灯す習わしが、今や光のショウに変貌していて盛況らしい(笑)。で、その聖母マリア信仰に関連してだけれど、これまたちょっと興味深い論考があったので読んでみた。「アルフォンソ10世、聖ヤコブ、聖母」というもの(Anthony Cárdenas-Rotunno, ‘Alfonso X, St. James, and the Virgin’, Latin American and Iberian Institute, University of New Mexico, 2009 )(docファイルがこちらでダウンロード可 )。
アルフォンソ10世の聖母信仰が、聖ヤコブ崇拝(サンティアゴ・デ・コンポステラ)への一種の対抗措置だった、みたいな説を以前聞いたことがあるのだけれど、この論文はそういった説への反論を唱えている。アルフォンソ10世が編纂したカンティガ集を読み直すことで、実は聖母マリアの崇拝が聖ヤコブ崇拝を補完するものであることを浮かび上がらせようという試み。カンティガ集の内容となる様々な奇跡譚が、どれもアンチ聖ヤコブではないということを実証的に論じていく。また、賢王アルフォンソが実利主義的な人物だったことをもとに、コンポステラの近くに聖母に捧げられた寺院を建造したことなども、対抗措置などではなく、むしろ領土政策上の政治的判断などもあってのことかもしれない、という可能性を示唆している。なるほどねえ。13世紀のマリア信仰の高まりは、一般に救済の内面化などに関連づけて説明されることが多いと思うのだけれど、そういう動きは一端成立してしまうと(言葉は悪いが)政治的に利用される面も当然出てくるというわけか(もちろん、だからといって賢王の信仰そのものを疑わしく扱うわけではないのだけれど)。こういう複合的な視野はやはり大事だなあと。
メルマガのほうではスコトゥスは一段落したけれど、いろいろと面白い側面がありそうなので、ブログの方で継続することにしよう。八木雄二氏がいずれかの著書に書いていたと思うけれど、スコトゥスの思想的理解においては神学的な側面が重要なのだとか。というわけで、まずは手始めに、リチャード・クロスによる「神的実体と三位一体に関するドゥンス・スコトゥス」という論考を眺めてみた(Richard Cross, ‘Duns Scotus on Divine Substance and the Trinity’, Medieval Philosophy and Theology 11, 2003, Cambridge University Press )。さわりだけまとめておくと……。
三位一体論をめぐる議論はもちろん初期教父の頃からあるわけだけれど、西欧ではギリシア教父の教説はあまり伝わらず、結果的にというか、アウグスティヌスの教説が支配的になったという。著者によると、ギリシア教父たち(ニュッサのグレゴリオス以降)が考えていたのは、神の実体は「内在的普遍」であるという考え方だという。神の実体はもとより普遍であって、その同じ一つの普遍が反復的に個別事例をなしたものが位格だという立場。一方のアウグスティヌスは、神の実体は普遍ではないとし、それについて類や種を語ることはできないという立場。位格とは何であるかは曖昧で、突き詰めるとただ「何か」があるというふうにしか言えないということに……(うーむ、そうだったかなあ)。で、巡り巡ってスコトゥスは、このギリシア教父らの考え方へと接近し、それをより精細にしたような議論を展開するのだという。とはいえ、別にスコトゥスがギリシア教父のテキストを読んでいたわけではないらしい……。
スコトゥスは「普遍」について、範疇の項目(被造物一般のこと)の場合と神の本質の場合とで別バージョンの理論を用意しているという。たとえば「人間」という概念を考えてみればよいけれど、前者の被造物の場合、数的に一とはならず(概念的には十全ではなく、具体物を見れば数的に多)、心的対象・思考対象として偶有的に変成されることで、はじめて共有可能&属性として適用可能になる。これはまあ、スコトゥス哲学についてよく言われるところ。ところが後者の場合については、スコトゥスは「内在的普遍」を認めているのだという。神の本質・本性はもとより数的に一つで、その体現(exemplified)となるのが位格とされる。位格そのものは実体でも個でもないと規定され(実体や個をなすのは神の本性のほう)、かくして「神」という名辞が示す対象も、神の本性のこともあれば、位格が体現する神のこともあるとされる。こうした構図を採用することで、三位一体にまつわる多神化の危険を回避できるほか、受肉という難問すらクリアできるようになるというのだが……(以下詳細は省略)。うーん、どこか悩ましい感じの(?)この読みの正当性、スコトゥスのテキストに実際に当たって検証してみたいところ。
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