昨日のグーゲンハイム反論本から再び。グーゲンハイムのテーゼの一つは、12世紀にモン・サン・ミッシェルの修道士、ヴェネツィアのジャコモ(ジャック)が、その地でアリストテレス作品を他に先立って全訳していたというものなのだけれど、同書ではこのテーゼを、ステン・エベセン(Sten Ebbesen)という研究者が詳細に検討している。まず、アリストテレスの『分析論後書』のラテン語翻訳者としてジャックの名前に触れている記載は3つほどあるという。文体の分析から、その同じ人物は『自然学』『魂について』『自然学小論集』も訳しているらしいとのこと。
そのジャックの伝記は、アンセルムスによって紹介されているという。それによると、若いころはコンスタンティノポリスにいて、さらに後にラベンナの大司教を擁護する法解釈などを記していて、さらにみずからを「ヴェネツィアのギリシア人ジャコモ、哲学者」と名乗っているという。ところがもしこの人物が上の訳者と同一であるとすると、1140年代にイタリアに渡り、そこで教師になっているという(パリのアルベリック師なる人物と、『詭弁論駁集』をめぐって対立。ジャコモはビザンツはエフェソスのミカエルのギリシア語注解を活用しているという)。で、その後はまたコンスタンティノポリスに戻っている、と。うむ、モン・サン・ミッシェルには行った形跡なしなのか……。
グーゲンハイムが依拠するのはミニオ=パルエロの研究だというけれど、そこで扱われていたアヴランシュ市立図書館所蔵の2つのジャック訳アリストテレス写本(もとはモン・サン・ミッシェルにあった?)は、片方は13世紀のものであることがわかっているといい、ミオニ=パルエロの考えているような、ロベール・ド・トリニ(とロベール司教なる人物)がジャックの翻訳の普及に一役買い、ソールズベリーのジョンすらもその写本を求めた、という話の「当の写本」ではない可能性のほうが高いらしい。そもそも当時はボエティウスの翻訳が再発見される頃合いでもあり、ジャック訳(大半は現存しない)は評価がすぐに下がって葬られた可能性もあるという。
ミニオ=パルエロは、上の2つの訳本がモン・サン・ミッシェルからのものだと考えただけだというが、グーゲンハイムはさらに、写本の保管場所=写本の製造場所(ないしは発注者の住処)という短絡的な思考でもって強引に論を展開している、とされる(確かにそういう印象はあったっけ)。もともとの持ち主が修道院に入ったために、修道院の蔵書になるケースもあるということで、実際はそう簡単ではないという。なるほどねえ。こんなわけで、グーゲンハイムの論はまったくの砂上の楼閣だというわけだけれど、エベセンは最後に、ジャコモ訳の『分析論後書』自体は当時標準的なテキストと見なされるほど重要だったものの、ただ不幸なことに、アリストテレス思想の本格流入(大学で普通に教えれるようになるのが1220年から30年)以前だったために参考資料も乏しく(アヴィセンナの『治癒の書』が伝わるのが12世紀末、アヴェロエスの注解が1230年代以後)、あまりに難解とされたのだった、と述べている。