だいぶ間が空いてしまったけれど、改めて続けよう、ヴァンサン・カロー本。さて、その序章では、目的因から作用因へのゆるやかな変遷を歴史的に跡づけようとしているのだった。で、トマス・アクィナス。トマスは『対異教徒大全』の中で、「原因が遠ざけられれば、結果も取り除かれる」(Remota autem causa, removetur effectus)という言い方をするのだという。この言い方は、原因とは結果が付随するものであるという規定のほかに、もう一つ、原因とはそれなしに結果が存在しえないものだという規定が含まれているように思われる。この後者こそが、トマスにおける「原因の存在論化」で、これがオッカム、ホッブスを経てヒュームにまで続く「原因=絶対的条件」というアングロサクソン的な系譜を作っていくのだと著者はいう。
ホッブスへの滞留はすっ飛ばして先に進むと(笑)、次にポイントとなるのは「因果関係」の原理がどのように現れるかだ。上のトマスの文言はすでにしてそういう近代的な意味での「因果関係」の萌芽を思わせる。けれども著者によれば、それはまだ、あくまで認識の原理(原因に従属する)でしかないのだという。真に「因果関係」と呼べるものは、ドゥンス・スコトゥスの「離散的事象」(passiones disjunctivae)論を待たないといけない。それはつまり、因果関係とは原因と結果に離散的に存在する一つの属性のことをいうという理論。言い換えると、結果を導く可能性(原因側から見た属性)と結果となりうる可能性(結果側から見た属性)がなくてはならいというわけだ(神と有限存在との存在の一義性から導かれる)。
事物がもつ「結果となりうる可能性」は、いわば表象(代示)によって決定づけられる原因についてのラティオ(ratio causae)なのだけれど、スコトゥスは原因自体がそれに従属するとして、認識と原因との関係を逆転させているという。これがスコトゥスの凄いところというわけだ。後にスアレスは、この離散的事象と同じような考え方を、「存在の分割」(divisiones entis)という別称で展開することになる……。
序論のここから先はいわば同書の見取り図のようなもの。14世紀になると、とりわけビュリダンなどによって、アリストテレス的な四因は作用因のみに「縮減」される。スアレスにあっては作用因こそが「本来的な原因」に昇格される(この点が第一章のスアレス論の中心になるようだ)。そしてデカルトに至ると、可能態・現実態といったコンセプトを経ることなく、「なにも原因なしには存在しない」が存在するものの実存を表す表現としてクローズアップされ、因果関係が原理として示されるようになる……云々。ウスターシュ・ド・サン・ポール(16世紀)、ライプニッツなどへと話は続くのだけれど、このあたりは割愛し、いよいよ続く第一章のスアレスへ。
Ἀπάγει τὸν μαθητευόμενον ὁ Χαλδαῖος πάσης ἑλληνικῆς σοφίας καὶ μόνῳ προσσκολλᾷ, ὡς οἴεται, τῷ θεῷ. ¨Μὴ τὰ πελώρια¨ γάρ, φησί, ¨μέτρα γύης ὑπὸ σὴν φρένα βάλλου · οὐ γὰρ ἀληθείης φυτὸν ἐν χθονί¨ · τοῦτ᾿ ἔστι · μηδὲ τὰ μεγάλα μέτρα τῆς γῆς πολυπραγμόνει τῇ σῇ φρενί, ὥσπερ οἱ γεωγράφοι ποιοῦσι καταμετροῦντες τὴν γῆν · σπέρμα γὰρ ἀληθείας οὐκ ἔστιν ἐν γῇ. ¨Μηδὲ μέτρει, ¨φησί¨ μέτρον ἠελίου κανόνας συναθροίσας · αἰδίῳ βουλῇ φέρεται πατρός, οὐχ ἕνεκεν σοῦ¨ · τουτ᾿ ἔστι · μὴ ἀσχολοῦ περὶ ἀστρονομίαν, μηδὲ καταμέτρει τὸν τοῦ ἡλίου δρόμον κανόσιν ἀστρονομικοῖς · οὐ γὰρ ἕνεκεν τῆς σῆς ζωῆς τὸν δρόμον ποιεῖται, ἀλλ᾿ ἀχρόνως κινεῖται κατὰ τὸ τοῦ θεοῦ βούλημα. ¨Μήνης ῥοῖζον ἔσασον · ἀεὶ τρέχει ἔργῳ ἀνάγκης¨ · τουτ᾿ ἔστι · τὸ τῆς σελήνης εὔτροχον κίνημα μὴ πολυπραγμόνει · τρέχει γὰρ αὕτη οὐ διὰ σέ, ἀλλ᾿ ὑπὸ κρείττονος ἀνάγκης ἀγομένη.
カルデア人は学徒を、いっさいのギリシアの知から遠ざけ、おのれの考え通りに神にのみ帰依させる。というのもそれは、「広大な土地の区画を自分の頭に入れようとしてはならない。真理の木は地に生えているのではないのだから」と述べているからである。これはつまり、地理学者が土地を測量するときのように、広い土地の区画で気を揉んではならない、なぜなら真理の種子は土地に蒔かれているのではないからだ、ということである。「太陽の大きさを諸表の寄せ集めで測ろうとしてもならない。それは父の恒久の意志で動かされているのであって、あなたによるのではない」とも述べている。これはつまり、天文学について頭を悩ませてもならないし、太陽の運行を天文表で計ってもならない、なぜなら、あなたの生ゆえに太陽は運行しているのではなく、神の意志によって時間を超越して動いているのだから、ということである。「月には音を立てさせておくがよい。それは常に必然の働きにより走っていく」。これはつまり、月の素早い動きを気にかけてはならない、なぜならそれはあなたのせいで走っているのではなく、より強制的な必然によって導かれているのだから、ということである。
本草学を眺めるにあたっては、やっぱり広く全体を俯瞰するところから始めたいということで、とりあえずテオプラストスの『植物誌』から押さえておくことにしたいと思い、Loeb版(Theophrastus “Enquiry into plants”, 2 vols, trans. Arthur Hort, 1916, 1926,) を少し前から読み始めているところ。基本的には序章にあたる1巻と、薬効成分に関して述べた9巻が注目どころ。あとはところどころ参照する形になるかな、と。とりあえず1巻は植物の分類についての論。基本的には形態による素朴な分類ではあるのだけれど、アリストテレスゆずりというのか、ある種の機能主義的な方法論を取っているのが面白いところ。これは思ってた以上に楽しめそうだ(笑)。
あと、基本的なところでは当然ながらプリニウスの『博物誌』も眺めておきたいところ、か。
投稿ナビゲーション
δελτογράφος <剳記> – deltographos.comの投稿セレクション・アーカイブ