垣間見える風景

地元でもある被災地に2日ほど立ち寄ってきた。被害の大きかった沿岸部を友人に案内してもらって巡ったりもしたが、瓦礫がだいぶ片付いた場所もあるかと思うと、事実上の手つかず状態の場所もあり、また、公営施設関連のものだと思うのだけれど、集められた瓦礫がうずたかく積み上げられているところもあった。これらが処分されて、なんらかの形でその一帯に町本来の機能が回復するまでには、長い長い時間が必要になりそうだ。改めて思う、災害の無意味なむごさ……。

ちょうど遅れて入手した『現代思想』5月号(青土社)に目を通していたのだけれど、その特集の冒頭をかざる柄谷行人の短い一文に、今回の震災と原発事故に戦後の記憶を重ねてみせる箇所がある。「それは再び戦後の焼け跡を喚起しただけではない。原発の事故は広島や長崎を想起させずにいない」(p.24)。なるほど、考えてみれば、品不足と買い占めはオイルショック期を彷彿とさせたし、節電も戦時中の灯火管制のことをちらっと頭にかすめさせるものがあった。数々の歴史的記憶の断片が人々の脳裏をよぎっていった感じなのだけれど、同時にこれまでに想定はされても体験したことのなかった状況も出現した。都内の帰宅難民や、電車の本数が減ると言われていっせいに5時くらいで仕事を終えて駅に向かった人々の流れ、原発に関する政府の統制的な見解にネットを含む草の根的な動きが対抗する様などなど……。この夏をどう乗り切るかという課題もまた、そういう新しい体験をもたらしていくかもしれない。で、もしかするとそれらは、これからの「未来の記憶」のようなものをなしているのかもしれない、などと想像してみる。やや楽観的ではあるけれど、未来についてのビジョンはそういう事象の中にあるのかもしれない、というように。

被災した町並みを夕暮れに車内からカメラで撮影していたら、暗くなってきたところでフラッシュが反応し、それが車内に乱反射したらしく、ある公共施設の残骸を撮した写真が、何やら光の中に残骸が消えていく風景のように写ってしまった。さらに移動する車から撮ったもう一枚も、流れるような光の帯に写っていた。オカルトっぽい、みたいに家族に言われたが(笑)、でもこれらは、どこか希望の光のようにも見えなくもない。残骸のはるか先を想ってみたい。