宗教と道徳

信仰は宗教とは違う、とその論考は語る。聖性というのは必ずしも宗教と分離できないのではない。そもそも宗教は祭祀の宗教と道徳の宗教に分かれる(カント)。この後者の道徳的宗教は「反省的信仰」と称される。それは知を行動に従属させ(つまりは知と行動を分離し)、発現形としての知を越えた善意志を支持する。そしてこの反省的信仰を解放する任務はキリスト教にのみ与えられている。なぜか。人間が道徳的に振る舞うには、神が存在しないかのように、自分の救済に関心をもっていないかのように振る舞わなくてはならない−−それがキリスト教が原則とする論理であり、それはすなわち神の死・不在に耐えうるということにほかならないからだ。ユダヤ教やイスラム教はそうした死・不在にあらゆる抵抗を試みる。唯一キリスト教だけが、そうした道徳的振る舞いを解放しうるというわけだ。では、その場合の道徳とはいかなるものか。その「反省的信仰」は、道徳が宗教に結びつく前のある種の超越性を純粋な形でもっている。その超越性こそがかかる道徳の本質をなしている(と推測される)わけだが、それを回復するには、啓示よりもさらに根源的な「開示」を見出さなくてはならない(ハイデガー)。これは困難をともなう営為だ。開示を見出しうる場とは砂漠という形象で言い表される無規定・無秩序の場だろうし、そこに可能性として見出されうるものというのは、あらゆる「信」の経験(信仰、信用、信頼etc)の基盤、後の発現形としての信仰のそもそも根源をなすような、普通の認識では捉えられない起源ではないか……。

……とまあ、少々乱暴にメインストリームだけを取り出してみたのは、かのデリダの「信仰と知」の新訳(英訳からの重訳ということらしく、しかも前半のみの抄訳)。これを収録している磯前順一・山本達也編『宗教概念の彼方へ』(法蔵館、2011)を読んでいるところなのだけれど、なにやら宗教学のある種の動向らしいものが見えて興味深い一方で、全体はわりと一般的な学術論集だけに、収録された論考のうちこのデリダのものが放つ強烈な挑発性はやはり異質・独特だ。なにもレトリカルな部分を指して言っているのではなく、むしろそうした枝葉を取り除いたところでの挑発性にこそ再度注意を払いたい、と個人的には思っているわけだけれど。デリダ節というか、そのレトリカルな部分を削ぐみたいな作業は、当然これから先もっと行われていくことになるのだろうけれど、とりあえずこのテキストもそんな目で再び眺めたい。