鳥をどう見るか−−中世の場合

カム・リンドリー・クロス「あのメロディアスなリングイスト:キリスト教・イスラム教の鳴禽類における雄弁と敬虔」(Cam Lindley Cross, That Melodious Linguist: Eloquence and Piety in Christian and Islamic Songbirds, University of Chicago, 2010)(PDFはこちら)という論考を読んでみる。鳴禽類(鳴き鳥)が中世においてどのように表象されていたかを考察する論考。この前半部分がとりわけ面白い。鳥は古くから聖霊の世界の近く(この世の最果て)に住むとされ、秘密の言葉で秘められた知識を担っている存在として、あるいは天からのメッセージを運ぶものとして描かれていたという。ユダヤ教やイスラム教では、ソロモンがその言葉に通じているとされていたし、キリスト教のイコノロジーでも聖霊が鳥の姿を取るといった描写があった。鳥はその後の西欧の文学的伝統でも、またイスラム圏の文学でもそれぞれ様々に描かれているものの、その背景には人間と動物の関係をどう見るかという問題が横たわっている、と論文著者は言う。アリストテレスは、動物が知性に類する属性を持つ場合もあるが、それは生理学的な偶然によるものだとしているし、後世のデカルトなどは動物は完全に魂のないオートマトンだとしているわけだけれど、たとえばアルベルトゥス・マグヌスなどは、鳥のささやきはつがいを求めるなどの様々な欲望によって生まれ、霊的な軽妙さゆえにほかの動物の声を真似ることもでき、一方でそうした軽妙さは鳥にある種の賢さをもたらしている、といったことを述べているのだそうな。記憶や想像力、推測、同意といった知的機能を、鳥は備えているかもしれないというわけだ。そうしたニュアンスに富んだ見方は、アヴィセンナなどのイスラム圏の思想から受け継いだもの、とされる。イスラム圏においては、動物は人間の所有物などではなく、神に直接帰されるものとして考えられており、人間と動物を基本的に分け隔てる考え方は見出されないという。アリストテレス思想の受容後もそうで、たとえばアヴィセンナは、動物が危険や利益などといった抽象的な普遍概念を、知覚機能を通じて認知できるとしていたのだ、と……。近年、認知言語学との絡みで鳥の鳴き声のパターンなどが分析されたりしているけれど、そうした研究の源流にはアルベルトゥスがいる、なんて考えるとなかなか興味深いかも(笑)。

論考の後半は、バスラの「純粋な心の兄弟たち」と呼ばれる10世紀の思想家たちが著した書簡集から「人間と動物の裁判」と題された文学作品、さらに13世紀の中期英語で書かれた似たような裁判もの、12世紀のフリエトのフーゴー(フーグ・ド・フイヨワ)の「鳥小屋」などの作品を紹介している。

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