フラット・アース(平面地球論)の神話

今日もある意味夏休み向けな話題を(笑)。中世を少しでも囓ると、神学者たちがちゃんと地球は丸いというような話をしていることがわかる。ところが「(暗黒の)中世では世界は平らだと思われていた」という記述をときおり目にすることがある。ああ、またこのクリシェか、と思ってスルーしがちになってしまうのだけれど、考えてみると、そういう話がいつからどうしてこんなにまで流布するようになったのかも気になるところ。というわけで、PDFで出ているスティーブン・ジェイ・グールド(科学史家、古生物学者)のエッセイ「平面地球論の遅い誕生」(Stephen Jay Gould, The Late Birth of a Flat Earth, in Dinosaur in a haystack, Johnathan Cape Ltd., 1996)(PDFはこちら)を見てみた。ちなみにもとの本は邦訳もある(『干し草のなかの恐竜』渡辺政隆訳、早川書房)。で、このエッセイは主に歴史家のジェフリー・バートン・ラッセルの『平面地球論の発明』(J.B. Russel, Inventing the Flat Earth: Columbus and Modern Historian, Praeger Pub, 1991-97)にもとづいている。平面地球論はまったくの神話にすぎず、8世紀の尊者ベーダも、さらに後の13世紀のロジャー・ベーコン、トマス・アクィナス、さらには14世紀のジャン・ビュリダン、ニコル・オレームなども地球は丸いとちゃんと述べているではないか……という。確かに例外もあって、4世紀のラクタンティウスは「地球が丸いなら、裏側には逆さになっている人間がいることになってしまう」と言っていたというし、コスマス・インディコプレウステス(6世紀の修道士、地理学者)は『キリスト教地誌』で地球を平らな床になぞらえているという。でもこれら二者はきわめてマージナルで(そもそもコスマスのラテン語訳などは18世紀まで存在していない!)、大抵の神学者たちは地球は丸いと考えていたし、その意味でギリシアの学問的伝統が「暗黒の」中世でいったん失われ、ルネサンスで再発見されたなどと単純には言えないのであり、学問的伝統は連続していた……というわけだ。

では、平面地球論はどこから出てきたのか。実はそれは19世紀だという。うーむ、またしても19世紀か(このところそんな話が続いているなあ)。しかもそれはコロンブスの評価に関わり、また宗教と科学の対立の構図も絡んでいるのだという。コロンブスが丸い地球を証明しようとして、学術的興味だけで旅に出たというのも今や神話だとされているが、それは米国の作家ワシントン・アーヴィングが1828年に出した『クリストファー・コロンブスの生涯と航海』という小説がもとではないかという。それをきっかけとして、コロンブスは平面地球論、つまりは宗教的蒙昧を打破した英雄的な人物に祭り上げられ、それは1860年から90年までの間に米国の教科書にも採用されるほどになったのだ、と。さらにその背景には同時代の、ダーウィンの進化論などに代表される科学啓蒙論があった。けれども宗教と科学のそうした戦いというのもまた神話で、それは現代世界にまで持ち越されている、とグールドは指摘する。

この話、たとえばこちらのビデオで最初の30分講演するテリー・ジョーンズ(作家・歴史学者だけれど、実はあのモンティ・パイソンのメンバーでもあり、『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の共同監督でもあった)の話でもそっくりそのまま取り上げられていて興味深い(笑)。

コスマスの世界地図
コスマスの世界地図

アトランティスの表象史(ティマイオス研 4)

Loeb版で『ティマイオス』に続き『クリティアス』を読んでいたのだが、いまさらながらだけれど、ここで詳述されるアトランティスの描写がなかなか面白い。基本的には一種の理想論なのだけれど、とくに10の部族が相互に相手を支援・抑制するシステムになっているというあたりの話がひときわ興味をひく。アトランティスの人々は後世の人間たちよりも神々に近い質をもっていたがゆえに、そうした体制がうまく機能した、みたいな追記付きだが……(笑)。これに関連して、ちょっとゆるめで、夏休みに読むのにぴったりかもしれない(?)論考を取り上げておこう。ティマイオスに関するかなり広範な論考を集めた『書一冊、宇宙全体−−プラトンのティマイオスの現在』(R.D. Mohr & B.M. Sattler (ed), One Book, the Whole Universe: Plato’s Timaeus Today, Pramenides Publishing, 2010)所収の、ジョン・ソロモン「ティンゼルタウンのティマイオス:映画の中のティマイオス」というもの。ティンゼルタウンはハリウッドの俗称。で、タイトル通り、19世紀末からの小説や映画がアトランティスをどう取り上げてきたかを通史的に振り返るという一編だ。

アトランティスをユートピアと捉える伝統はルネサンス頃から始まり、フランシス・ベーコンの『ニューアトランティス』、トーマス・モアの『ユートピア』、キルヒャーによるアトランティスの地図などを経て、産業革命後は技術的な進んだディストピア観に転じるようになる。19世紀には、ドネリーの小説『アトランティス:洪水以前の世界』とジュール・ヴェルヌ『海底二万里』を経て、アトランティスは「歴史的に位置づけられうる」場所へと変容し、その後の様々な創作の舞台となる道が開かれる(プロトタイプとなっているのはポンペイの事例だという)。その後トロイアの発掘によって、トロイア戦争が創作のイマジネーションを刺激しなくなり、一方で20世紀初頭になって小説メディアの大衆化が進み(パルプ・フィクションなど)、かくしてアトランティスはもてはやされる舞台設定となった。折しも映画も隆盛で、ピエール・ブノワの『アトランティード』などは、すぐに映画化されることになる(ジャック・フェデ監督作品、1921)。そしてパプスト『アトランティスの女』(1932)…… 。ここからはひたすら映画史の話になっていく。

それでも40年代ごろまでは、『海底の王国』(1930年代のシリーズもの)ぐらいしか作品はないのだというが、1949年にブノワの小説が映画化されるのをきっかけに(『アトランティスのセイレーン』(ネベンザル))、アトランティスものは50年代に本格化するという。『禁断の惑星』(1956)(アトランティス人が高度な科学技術で生き残っているという伝統的設定を定着させたという)やヴェルヌ原作の『地底探検』(1959)などなど。さらには『謎の大陸アトランティス』(1961)、『アトランティス征服/ヘラクレスの怪獣退治』(1961)、『豪勇ゴライアス』(1965)、などなど……まだまだ様々な作品が取り上げられている。日本映画からも、95年版のガメラがエントリーしている(!)。うんうん、そういえばアトランティスがらみの設定だったけなあ、95年版は。さらに1985年の『コクーン』を経て2001年のディズニーの『アトランティス/失われた帝国』まで。時間的・金銭的余裕がある人なら、夏休みに全作品の鑑賞に挑戦してみるのも一興かも(笑)。

ロビン・フッドの「出世」?

ラッセル・クロウ主演の映画『ロビン・フッド』(リドリー・スコット)では、ロビンは十字軍帰りの兵士で、最終的にはフランス軍と戦うことになる。これを観たとき、その設定を「なかなかぶっとんでいるなあ」と思ったものだが(ケビン・コスナー版はちゃんと観ていないし、ショーン・コネリーの『ロビンとマリアン』はすっかり忘れていたのだけれど、それらも結構似たような設定だったらしい)、そういう設定はどこから、いつごろ生じたのかという疑問は以前からあった。で、最近になってそういう話を取り上げた論考に出会った。スティーブン・ナイト「ロビン・フッドと十字軍:いつ、なぜ民衆の射手は領主のごとく馬にまたがったのか」(Stephen Knight, Robin Hood and the Crusades: When and Why Did the Longbowman of the People Mount Up Like a Lord?, Florilegium, vol.23, No.1, 2006)というもの。それによると、50年代の英国製ドラマ『ロビン・フッドの冒険』でも、ロビンはすでにして十字軍帰りの貴族で、しかも騎手でもあったという設定なのだという。で、論考はこの馬に乗るロビンとか、十字軍絡みの設定がどこから生じているのかを検証しようとする。その先には意外な結論が……。以下ネタバレ(笑)。

実はそうした造形はかなり新しいものらしい。きっかけとなったのではないかとされる印刷本ですら16世紀のもの。それ以前の伝統的なバラッド(物語詩)に描かれたロビンは、領主ではなく自由民で、義賊ですらなく、権力に逆らいこそすれ、ごく少数の集団で森で生活している盗賊でしかない。当然移動も徒歩だ。それが、1500年ごろにアントワープで印刷された『ロビン・フッド武勲詩』になると、馬にまたがった射手のイメージが冒頭に挿絵つきで載っているのだという。とはいえ、その木版画の挿絵はキャクストン版『カンタベリー物語』からの流用なのだそうで、また作品内の挿絵として見た場合でも、描かれてるのはロビン本人ではなく、ロビンが手助けをした貴族なのだというが、いずれにしてもこれがイメージ的にもつれていく一つのきっかけになっているのは間違いなさそうだ。論文著者はここに、印刷本のマーケットを意識した意図的な戦略を見ている。印刷本の読者は基本的に上流階級だから、導入部で彼らにウケるキャラをイメージさせるというのは、まさしく掴みとして重要だ、というわけだ。さらにその貴族は没落した貴族とされ、それはその人物が十字軍に従軍したためだということも示唆されているという。こうして十字軍もイメージ圏内に入ってくる。

一方、従来の伝統的なロビン像も、17世紀にいたっても続いていたそうだが(印刷本として刊行されたバラッドなど)、17世紀後半になると、ロビンを領主として描くような上品な版も登場し、それに伴う形で騎手としてのロビンを示唆するようなものも出てくるのだとか。とはいえ、十字軍帰りとか騎手としてのロビンが公然と描かれるようになるのは、なんと20世紀の映画やドラマを通じてなのだそうで(!)、その先駆けになったのが、19世紀の上流社会向けのフィクションであり、その背景をなした帝国主義だった……と話は進んでいく。うーん、なんとも意外なこの展開。時代ごとに様々な政治的(?)意味を担わされる中世の人物造形が、どこか哀れな気もしないでもないが……(苦笑)。

ノッティンガムのロビン・フッド記念碑
ノッティンガムのロビン・フッド記念碑

薬剤師と貧困?

夏なので……というわけでもないけれど、ちょっとゆるめに論文読み(笑)。ドミニク・グレース「ロミオと薬剤師」(Dominick M. Grace, Romeo and the Apothecary, Early Theatre, vol.1, issue 1, 1998)は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、ロミオがジュリエットの死(仮死)を知らされた後で、みずからも命を絶つための毒を買いに薬剤師のもとを訪れる場面について検討しようというもの。その薬剤師の店の描写がなにやら饒舌で、なんでそんなところが詳しく描かれているのか、プロット上、ロミオの毒の入手元というだけなのに、この手厚い描写は何なのか、というわけだ。で、シェイクスピアが描くその薬剤師は、貧困層の人物として描かれていて、シェイクスピアが元の素材として用いた、英国の16世紀の詩人アーサー・ブルックの詩でも同様だという。シェイクスピアは素材からの逸脱を公言しているらしいのだけれど、ではこの部分はそのままにしている、というかむしろ膨らませているのは一体なぜなのか、と。

文学的解釈では、その殺伐・荒涼とした店の様子が、ジュリエットを失ったロミオの心の状態を写し取っている、みたいに言われている。さらにこの論考の著者は、この薬剤師という存在が劇の構成上、ロミオに錬金術的な策術を吹き込むロレンツォ修道士と二重写しになっていると指摘している。この話はさらに拡張され、舞台からの薬剤師の退場後ほどなくロレンツォが入場することから、両者を同一の役者で演じさせる演出の是非を考察していく……。うーむ、でも、個人的に気になるのは、むしろこの薬剤師と貧困がさらっと結びつけられていること自体だったりする。薬剤師は一般的にそんなに貧しかったのか、あるいは貧しい層と見なされていたのか……そうでなかったら、シェイクスピアは薬剤師の場面を温存せずに改編したかもしれない……(?)。で、その場合、そこに読み込まれているのは、舞台となっている14世紀の薬剤師像なのか、それとも作品が成立した16世紀当時の薬剤師像なのか?うーん、一般に医学と薬学の分離は12世紀末ごろまでには確立されていたというし、当然ながらギルドの存在もあったわけで、薬剤師が貧しいというイメージがあったようにもあまり思えない気がするのだが……。ここから先は史学的な問題。個人的に要検証だなこれは。一方、論文著者の文学的考察は、ロレンツォ修道士との関連で浮かび上がることとして、ロミオの意図的にネガティブな性格が強調され、そのずさんな視野が悲劇的な行為に結びついていることだとまとめている。

『身体養生論』ブザンソン写本から、薬剤師の図
『身体養生論』ブザンソン写本から、薬剤師の図

断食とチョコレート

ちょうどイスラム圏はラマダンだということで、ちょっと時代的には後だけれど、断食にまつわる論考を見てみた。マッシモ・レオーネ「断食とショコラ:イタリアにおけるジャンセニスム的厳格主義」(Massimo Leone, Le jeûne et le chocolat : le rigorisme janséniste en Italie, Le jansénisme et l’Europe, Actes du colloque international organisé à l’Université du Luxembourg, 2010)というもの。ジャンセニスムといえばパスカルなどの傾倒でも知られている17、18世紀の厳格主義。とりわけフランスの貴族の間で流行ったとされているけれど、なるほどそれはイタリアにも伝わっていたという次第。この論考によれば、書簡、旅での交流、フランス出身の神学者の存在、書物などを通じてイタリアへも拡がり、17世紀後半以降には定着していたとされている。とはいえ、確かに反イエズス会的な神学・モラル的な厳格主義ではあったものの、どこか拡大解釈や地方的な好みなどに彩られ、一種独特のものになってもいたらしい。その背景には、イタリア的な「決疑論」(casuistique:要するに一種の詭弁で罪を逃れるやり方)への反発があった。その決疑論によれば、たとえば修道女の胸に触れることは微罪にすぎない、といった見解が支持される。もちろんその見解には、おまえはプロテスタント系の「おっぱい派神学(theologia mamillaris)」か、というツッコミが入るわけだけれど……(これ、乳頭派とかすべきかもしれないけれど、ブログ「オシテオサレテ」が採用していた秀逸な(?)訳を使わせていただこう(笑))。いずれにしても、厳格主義者らは敵対する側の水準にあえて身をおき、その同じ土俵で道徳神学の改革を企てていくのだという。

……とまあ、こうした長い前置きに次いで、ようやく論考の主題である断食とショコラの話になる。これもイエズス会などの決疑論側への反論の一つ。そちらの見解によれば、微量のショコラを飲むのは断食を破ったことにはならないとされる。蓋然説(疑わしければ決疑論者の権威に従えという立場)では、ショコラが西欧に入ってくる(一六世紀)前の中世の論者たち(トマス・アクィナス、サン・プルサンのドゥランドゥスなどなど)が断食中の舐剤(なめ薬:要は瓶詰)について記した箇所まで引いて、ショコラの消費を正当化している。で、当然ながら厳格主義の側はこれを批判する。その実例として挙げられているのがダニエレ・コンチーナの著作だ。論考はその中身、つまりは反論を詳細に取り上げていく。アウグスティヌスを引用するのはもちろんのこと、カトリック批判の文脈ではカルヴァンまで引用しているというし(!)、ショコラ反対論を述べていれば決疑論者たちからも引用しまくるのだという。いや〜なかなかすごそうだ。そのあたりの攻撃の多面性が興味深い。

「チョコレートを飲むミシュテカの王たち」。メキシコの写本から
「チョコレートを飲むミシュテカの王たち」。メキシコの冊子本から