ティマイオス研 – 3 :カルキディウスの注解からの流れ

中世にまで及ぶティマイオス注解。で、その流れを方向づけているのはやはりカルキディウス(四世紀)によるティマイオス注解らしい。論集『ティマイオス−−ギリシア、アラブ、ラテン世界の注解』の末尾を飾るイレーネ・カイアッツォ「元素の形状と性質:『ティマイオス』の中世的読解」という論考は、『ティマイオス』に出てくる四元素論にのみ特化した形で、一二世紀までの注解の事例を追っていくというものなのだけれど、その出発点に位置づけられているのはカルキディウスだ(ちなみにカルキディウスのティマイオス注解は2011年にベアトリス・バクーシュによる校注版(リュック・ブリソンが翻訳に協力)が二巻本で出ている(Béatrice Bakhouche(éd), Commentaire au Timée de Platon-2 Volumes, Vrin, 2011))。

『ティマイオス』の四元素論(31Bから32Cと、53Cから57Aの二箇所で展開する)では、元素のそれぞれに幾何学的な形状があって、火は四面体(角錐)、空気は八面体、水は二〇面体、土は六面体(立方体)とされる。で、そうした形状からそれぞれに特有の性質がある。火、空気、水の三つの元素の多面体の面は、まずは正三角形に分割でき、次いでそれを不等辺三角形に分割できる。したがってこれら三つは互いに分解・再構成が可能で循環的だとされる(いずれも動の性質を帯びる)。一方の土は立方体なので、その面(正方形)からは二等辺三角形しか切り出せず、これは循環できないとされ、不動の性質を帯びる。で、基本は火と土なのだけれど、それらの間をつなぐために空気と水が必要とされた、という話になっている。あきらかにこれはアリストテレスの四元素論・四特性論とは異質なものなのだけれど、カルキディウスは初めて、そのアリストテレスの四特性(乾・湿・寒・暖)に言及し、「土」もまた他の元素に変換可能だということを簡単に説いているという。とはいえ、注解という意味では『ティマイオス』での元素論に忠実に従い、もとのテキストでは簡単にしか触れていない四元素の性質などを標準化しているという(繊細、鋭、鈍、鈍重、動、不動の六つ)。この性質の議論(六性質論)と、カルキディウスの数学的解釈、自然学的解釈が、後に中世にまで受け継がれていくことになる。

たとえばそれは、ボエティウスの『哲学の慰め』第三書第九詩の「あなたは数でもって元素を結びつける。寒が炎に、乾きが水に適するように」という箇所の注釈でも使われているという。オーセールのレミギウスのものとされる注釈書(アリストテレス的解釈)、ウトレヒトのアダルボルドゥス(数学的解釈)、一二世紀の逸名著者による注釈(アリストテレス的解釈のほか六性質論も併用)、コンシュのギヨーム……。そしてまた、当然ながら『ティマイオス』への注解書もいくつか紹介されている。コンシュのギヨームは、上のボエティウス注釈の頃はアリストテレス寄りの解釈でもってカルキディウスの六性質論を斥けていたものの、後に『ティマイオス』の注解を手がけて異なる元素の連続性の問題を扱うに及んで、その六性質論の理解を深め、それをある程度受け止めるようになるという。論考ではほかに、一二世紀後半の逸名著者のティマイオス注釈書、シャルトルのベルナールのものとされる注釈書なども取り上げられている。さらに、まだ校注版などが出ていないシャルトルのティエリーによる『算術教程』という写本の一節(火は世界の創成においては丸みを帯びた形状をしていた、というちょっとビックリする記述がある!)も紹介されている。

ティマイオス研 – その2:ガレノスの注解書

再びチェリア&ウラッコ『ティマイオス:ギリシア、アラビア、ラテン世界の注解』(Il Timeo. Esegesi greche, arabe, latineからメモ。これの第三章は「中期プラトン主義の注解」についての論考(フランコ・フェラーリ)なのだけれど、そこでまず指摘されているのは「専門的注解」の成立。これは対話篇のうちテーマ的に一貫している一部のみを取り上げて注釈を施すやり方で、その代表例として取り上げられているのがガレノスによる注解だ。『ティマイオスにおける医学的問題についての覚え書き(Περὶ τῶν ἐν τῷ Τιμαίῳ ἰατρικῶς εἰρημεμήνων ὑπομνήματα)』というそれは(ギリシア語版が断片的にしか残っていないという)、当時(二世紀ごろ)の学識にそぐうようにティマイオスの内容をパラフレーズしようというもので、それによって対話篇の不明瞭な部分を明確化するのを目的としているらしい。ガレノスは、とくに文体の過度の簡潔さや、読み手側の教義への見習熟などが不明瞭の原因であると考えていたという(『明瞭と不明瞭について』という別のテキストもあるようだ)。ガレノスがやろうとしていたのは、『ティマイオス』に隠喩的・類比的な形で記された医学的考察を、より専門的な見地から見てより正確な用語に移しかえることだったという。たとえば、呼吸器と消化器官の説明(78A6 – 79A4)に魚取りの網(漁師の用いるかご:κύρτος)のたとえが使われていたりするけれど、これをガレノスは解剖学的な身体の部位の話に移しかえているとのこと。

ガレノスについてはさらに、第五章「アラブの伝統におけるティマイオス」(リュディガー・アーンツェン)でもかなり高い比重で言及されている。一〇世紀から一三世紀ごろにかけて、アラブ世界に広く流布した『ティマイオス』のテキストには、大別するとパラフレーズ版(三部作)『ティマイオス』(イブン・アル・ビトリーク訳)のほか、ガレノスの要約版『ティマイオス』(フナイン訳、ギリシア語版は散逸)、ガレノスの注解書(もとは上と同じもの、フナイン訳)があり、アル・キンディなどは要約版のほかにパラフレーズ版なども参照していた可能性があるのだという。ちなみにガレノスの注解書については、アラビア語版も少量の断片が残っているだけなのだそうな。同論考では、要約版ともとの『ティマイオス』本文との対応関係が一覧表になっていたり、要約版とガレノスの注解書との重なる部分などが表になっていたりする。論考の末尾にはアラビア語版の『ティマイオス』の各種断片ともとの本文とが並記されていて、これまた貴重な資料……。このあたりは後でじっくり眺めたいところ。いずれにしてもアラブ世界のティマイオス受容にガレノスが噛んでいる、というのがなかなか興味深い。

497px-Galen_detail

マニリウスとアウグストゥス

これまた少し前からボチボチっと読んでいるのが、マリニウスの『アストロノミカ』Loeb版:Manilius – Astronomica, 1977-1997)。韻文で書かれた占星術についての詩作品なのだけれど、この著者マニリウスについては詳しいことがまるでわかっていないのだそうだ。ただこの詩作品が紀元一世紀の最初の20年間あたりで書かれたことは、内容のリファレンス(紀元9年のトイトブルク森の戦いなど)からほぼ確からしいという。とりあえず第一巻を読了したところなのだけれど、最初の宇宙開闢論(ストア派の四元素論)に続いて、天体の配置の話がずらずらっと続く印象だ。このあたり、例によってあまりちゃんと理解していないが(苦笑)、まあとりあえず先に進むことにしようと思う。で、このマニリウスに関連して、デーヴィッド・レイ「古代ローマの占星術:詩・予言・権力」(David Wray, Astrology in Ancient Rome: Poetry, Prophecy and Power, 2002, Univ. of Chicago)というWeb公開の論考を読んでみたのだけれど、それによると、最初の校注版を編纂したハウスマンという人物が、マニリウスの詩をもとに占星術のチャートが描けるわけではないと言っているのだそうで、それはウェルギリウスの『農耕詩』が現実の農家のマニュアルにならないのと一緒だと著者は記している。でも、興味深い指摘として、『アストロノミア』は『農耕詩』をモデルにしているのはほぼ間違いないという。ちなみにハウスマンの校注版はネットからダウンロードできる(→書誌情報など含めたページ)。

上のレイの論考は、どちらかといえばアウグストゥス時代の占星術がどのように政治的に使われていたのかという問題を取り上げた一編。アウグストゥスがその権勢を知らしめるための方途には、一つにはコインや記念碑でのイメージ戦略があり、もう一つにはみずからの出生時のホロスコープの公開があったという話を取り上げている。でもこの後者については具体的に何をどうしたのかが不明だといい、またスエトニウスが伝える逸話では、そのホロスコープの公開はアウグストゥスが権力の座につくはるか昔とされていて、その逸話そのものがフィクションだった可能性も当然あるという。とはいうものの、占星術自体はその当時、ギリシア的教養として高く評価されていたといい、アウグストゥスがみずからの星座を知らしめたかったことは間違いないだろう、という話だ。歴史上最初の「公開」ホロスコープは、紀元前62年にアンティオコス一世コンマゲネ王がネムルト山頂の岩に彫らせたものなのだとか。論考は最後に、アウグストゥスが「カプリコーン」(山羊)になぞらえられている図像(コイン、浅浮彫、カメオ)についてのコメント。これはまあ、推測の域を出ないものということなのだけれど、このあたりの詳しい研究とかもあれば見てみたいところ。