これまた少し前からボチボチっと読んでいるのが、マリニウスの『アストロノミカ』(Loeb版:Manilius – Astronomica, 1977-1997)。韻文で書かれた占星術についての詩作品なのだけれど、この著者マニリウスについては詳しいことがまるでわかっていないのだそうだ。ただこの詩作品が紀元一世紀の最初の20年間あたりで書かれたことは、内容のリファレンス(紀元9年のトイトブルク森の戦いなど)からほぼ確からしいという。とりあえず第一巻を読了したところなのだけれど、最初の宇宙開闢論(ストア派の四元素論)に続いて、天体の配置の話がずらずらっと続く印象だ。このあたり、例によってあまりちゃんと理解していないが(苦笑)、まあとりあえず先に進むことにしようと思う。で、このマニリウスに関連して、デーヴィッド・レイ「古代ローマの占星術:詩・予言・権力」(David Wray, Astrology in Ancient Rome: Poetry, Prophecy and Power, 2002, Univ. of Chicago)というWeb公開の論考を読んでみたのだけれど、それによると、最初の校注版を編纂したハウスマンという人物が、マニリウスの詩をもとに占星術のチャートが描けるわけではないと言っているのだそうで、それはウェルギリウスの『農耕詩』が現実の農家のマニュアルにならないのと一緒だと著者は記している。でも、興味深い指摘として、『アストロノミア』は『農耕詩』をモデルにしているのはほぼ間違いないという。ちなみにハウスマンの校注版はネットからダウンロードできる(→書誌情報など含めたページ)。
上のレイの論考は、どちらかといえばアウグストゥス時代の占星術がどのように政治的に使われていたのかという問題を取り上げた一編。アウグストゥスがその権勢を知らしめるための方途には、一つにはコインや記念碑でのイメージ戦略があり、もう一つにはみずからの出生時のホロスコープの公開があったという話を取り上げている。でもこの後者については具体的に何をどうしたのかが不明だといい、またスエトニウスが伝える逸話では、そのホロスコープの公開はアウグストゥスが権力の座につくはるか昔とされていて、その逸話そのものがフィクションだった可能性も当然あるという。とはいうものの、占星術自体はその当時、ギリシア的教養として高く評価されていたといい、アウグストゥスがみずからの星座を知らしめたかったことは間違いないだろう、という話だ。歴史上最初の「公開」ホロスコープは、紀元前62年にアンティオコス一世コンマゲネ王がネムルト山頂の岩に彫らせたものなのだとか。論考は最後に、アウグストゥスが「カプリコーン」(山羊)になぞらえられている図像(コイン、浅浮彫、カメオ)についてのコメント。これはまあ、推測の域を出ないものということなのだけれど、このあたりの詳しい研究とかもあれば見てみたいところ。