先日取り上げたペトラルカ主義がらみということで、アビゲイル・ブランディン「ペトラルカ主義・新プラトン主義、そして宗教改革」(Abigail Brundin, Petrarchism, Neo-Platonism and Reform)という文書を見てみた(PDFはこちら)。実はこれ、同著者の『ヴィットリア・コロンナとイタリア宗教改革の精神詩』(Vittoria Colonna And The Spiritual Poetics of The Italian Reformation, Ashgate, 2008)という書籍の序文とのこと。けれども単体の論文として読んでもなかなか興味深い。文学系の論考ではあるけれども、とりあえずメモしておこう。
表題にあるように、この序文が扱っているのは、16世紀のイタリア俗語文学の規範と、当時広範に広まっていた改革派の精神性との関連。まず、16世紀当時、改革派の思想と詩作・文芸批評との両方に関心を示す書き手は数多くいたことが(その代表的な人物にヴィットリア・コロンナがいる)、すでに様々な研究で明らかになっているらしい。当時のイタリアでの宗教改革運動は土着的運動という特徴をもっていた。一方でペトラルカの叙情詩が廉価版の形で広く読者に受け入れられていて、それが改革派の精神性を幅広い読者層に伝える役割を果たした可能性があるという。ペトラルカ主義と改革派の精神性との間にはどんな親和性があったのか。著者はここでまず形式的な面での考察をめぐらす。たとえば当時流行した詩の形式としてのソネットは、様々な詩作上の「制約を伴った自由」の中にあってなお、新しい思想の探求をするための出発点にもなっているというのだが、その「制約を伴った自由」は、ペトラルカ主義が根付いた宮廷社会の構造にも重なるものだとされる。また、ペトラルカの叙情詩に見られる、冒頭と最後で循環的に詩人が自省的意識に立ち返るという特徴は、改革派の自省的な傾向に通じるものがあるともいう。詩人はさらに、人間のもつ限界にフラストレーションを覚えつつも、それゆえにおのれのはかなさを越えた「信仰のみによる」救済の驚異を指し示す。これはまさに改革派の精神性と重なってくる。さらにそうした精神性は、イタリアの宮廷で15世紀から16世紀初頭に台頭したフィチーノ流の新プラトン主義とも、表現の面で多くを共有しているという(知識の深まりによる救済、神へと意志を向ける選択の重視、神へと近づくことによる神的なイメージの修復などなど)。かくして改革派が記す著作はプラトン主義哲学の色合いをももつことにもなったといい、ある意味でそうした異教的思想が、文学的潮流と改革運動との仲立ちをしていた可能性もあるのではないか、とされている。
ここまではやや表面的な(?)比較文学的な考察にすぎないのだけれど、ここで著者は、ヴィットリア・コロンナの歩みを示唆することで、そこに実証的な裏付けを与えようと試みる(もちろん傍証ではあるのだけれど)。コロンナの改革派思想への関心が高まったのは、改革派との直接のコンタクトからではなく、宮廷に出入りしていたアカデミア・ポンタニアーナの文人たちとの交流を通じてだったといい、文学や詩の議論を通じてコロンナの作品も改革派的なフレーバーを纏うようになり、改革派的な精神性、新プラトン主義的な文学表現が交錯的に育まれていった、と著者は論じている(このあたりはおそらく書籍全体でより細やかに論じられていそうな感じだ。未確認だけれども)。さらに末尾には、ペトラルカ主義の文学的な「模倣」(imitatio)の実践が、そうした展開を支える重要な側面だったとされている。フランシスコ会派が広めたという一二世紀来の「キリストのまねび」は、ペトラルカ自身にとっても、古典的テキストと並ぶ源泉になっているといい、それはまたペトラルカ主義の面々(ピエトロ・ベンボなど)にとって、文学集団の形成の重要な要因になっていたとされている。うーむ、そのあたりの中世以来の模倣の話は、個人的にもとりわけ要注目の部分だという気がする。