スアレス『形而上学討論集』から 3

第二討論第一部の続き。ずいぶん間が空いてしまっているが、暇をみて訳出していくことにしたい(苦笑)。本文はここから諸説の検討に入っていくようだ。まずはカエタヌス(1469〜1534)の説。ドミニコ会士でバリバリのトマス派ということで、基本的には存在の類比説を取っているらしい。同じく言及されているフォンセカ(1528〜99)はスアレス同様イエズス会士。

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2. 最初の見解は、存在者に形相的概念−−それ自体一つであるとされ、特定の存在者を表す他の概念から区別された概念−−が与えられることを絶対的に否定するというものだ。これは、小著『名前の類比について』第四章と第六章でカエタヌスが示した見解である。それは不明瞭な形で述べられており、完全な概念と不完全な概念を区別してはいるが、一方でその区別は、次に取り上げるフォンセカの区別と一致する。注意深く読むならば、まさにそれが(フォンセカの)見解であるように思われる。フォンセカは、『形而上学註解』第四巻第二章第二問第二部において、それは真理に達しているか、あるいは真理に限りなく近いところにあると述べている。もしそうでないなら、存在者は一義的であって類比的ではないことになってしまうから、というのが(この見解の)根拠だが、われわれが後に検討するようにそれは偽である。その結論部分は、名前が共通する事物はどれも一義的だという理由で論証されている。アリストテレスが『範疇論』の冒頭で述べているように、名前に実体が割り当てられる根拠(ラチオ)は同一である。だが、存在者という名前はすべての存在者に共通する。したがって、名前の根拠には同じ一つのものがあるのみで存在者は一義的であるか、あるいはまた、根拠は一つではなく存在者の形相的概念も一つではありえないかのいずれかとなる。なぜなら形相的概念は、しかるべきものとしてそれが指示する一つの事物、もしくは一つの概念的思惟から、その一体性を得ているからだ。それゆえ、かかる概念がしかるべき存在者を表す言葉もしくは名前であるならば、その名前で意味される存在者以上に一体であることはありえない。