「描像」と決別するために

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)先頃出た、ドレイファス&テイラー『実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)』(村田純一監訳、法政大学出版局、2016)を読んでいるところ。とりあえずざっと前半。原書も2015年の刊行のようだから、とても素早い対応だ。それほどまでに今、実在論の復権というのはかまびすしい動きになってきているということか。ここで言う実在論は、古典的な唯名論に対立するものではなく、むしろもっと根源的に、西欧に綿々と受け継がれてきた、認識論の媒介主義、つまり現実世界をある種の「描像」を通じて把握するという考え方を否定しようという動きのこと。無媒介主義と言ってもよいかもしれない。媒介主義は、古くは中世のスペキエス(可知的・可感的形象)概念からあり、その後17世紀ごろのデカルトの「心的実体」論やロックの内的記述(同書の著者たちはこれを媒介主義の起源と見ている)、さらにはヒュームの心的印象論、そしてはるか後世の現代においても、ローティやデイヴィドソンなどがその系列に連なるのだという(!)。媒介主義はこのように、懐疑主義や操作主義など、西欧的なある種の独善的な思想を生み出す底流をなしているといい、著者たちはそれを脱構築するという、一筋縄ではいかない作業を引き受けようとする。同書はいわばそうした宣言書にほかならない。

もちろんそうした媒介主義を打破する動きもないわけではなく、カント(同書では「基礎付け主義」とされる)から始まってヘーゲル、現代にいたってはハイデガー、ウィトゲンシュタイン、そしてメルロ=ポンティなどがその代表的な論者とされる。それらの議論の要は、要するに事物が全体的な体系の内部でしか開示されえないというスタンスに尽きる。とくにメルロ=ポンティは、無媒介的な身体ベースの志向性が予めあってはじめて表象的な志向性が可能になることを示したといして、すこぶる高く評価されている。著者らは、媒介主義の基本原理を4つほど切り出してそれらを批判している(それが前半)ほか、次いで描像から抜け出すための処方箋も4つ描き出していて、後半はそれらの詳述ということになるようだ。個人的には、このメルロ=ポンティの評価の部分と、またしてもカント/ヘーゲル路線の再評価というあたりがとりわけ刺激的だ。