ビウエラ本

090415-143532こちらも最近アマゾン・ドイツのマーケットプレースから届いた一冊。ルイス・ミランのビウエラ曲集(Luis Milan, “Libro de musica de vihuela de mano”、1535)。もとは1927年にライプチヒで出たオリジナルのタブラチュアと五線譜の「対訳本」で、94年にそれをリプリントしたもののよう。抄本かなと思っていたら、ちゃんとフルバージョンで、40曲余りのファンタジアその他諸々がすべて入っていた。わぉ、こりゃ嬉しい(笑い)。こういうのを眺めていると、ルネサンス・リュートで弾くのもいいけれど、ちょっとマジでビウエラを入手したくなってくる(笑)。個人的にはイタリア式のタブラチュアもそれなりに馴れてきたと思うけれど、このミランのタブラチュアは通常のイタリア式タブラチュアと上下が逆、という不思議なもの。このあたりに何か意味があったのか、というのはとても気になるところ。ま、それよりもなによりも、ルイス・ガセル『16世紀の演奏習慣に見るルイス・ミラン』(Luis Gasser, “Luis Milan on Sixteenth-century Performance Practice”, Indiana University Press, 1996”)なんてのもしばらく前から積ん読になっているので、まずはそちらを読んで勉強しよう(笑)。

長旅ご苦労様

今朝届いた荷物は、なんとまあ注文から1年以上経っていた本たち。クリスティーナ・ヴィアーノ編『アリストテレス・ケミクス』(Christina Viano (ed), “Aristoteles chemicus – Il IV libro dei Meteorologica nella tradizione antica e medievale”, Academica Verlag 2002)ほか一冊。イタリアの古書店に注文して、発送の連絡を受けてからひたすら待ち続け、半年近くたったところで問い合わせメールを出したら、「セカンドコピーを送る」との返事をもらい、さらにひたすら待って、昨年秋ごろに再度問い合わせメール。「確認して、対応する」との返事が来たものの、やはり荷物はとどかず、これは完全にロストしたかもなあ、と思って半ばあきらめていた。それがやっと到着。見ると、書籍を入れた袋の表面には幾十ものテーピング。そして発送日は今年の4月6日になっているでないの。ってことはこれ、宛名違いか何かで日伊間を数回往復していたのかも(???)。いや〜長旅ご苦労様という感じ。そう思うとひとしおですなあ。まだ中身はちゃんと見ていないけれど、アリストテレスの『気象論』第4巻(熱やら物質変成やらを扱った箇所)の後世の注釈などを取り上げた、99年のセミナーの論集で、目次を眺めるだけでも大いに期待できそう(笑)。

翻訳論集成

ドイツ系の近代の翻訳論を集めた『思想としての翻訳』(三ツ木道夫編訳、白水社)。ロマン派あたりの翻訳論だけあって、中身もかなり文学論寄りで、ときにある種の思いこみのような議論に貫かれていたりもするのだけれど(笑)、とにかく翻訳の対象が主にギリシア・ラテンといった古典語で(さすがロマン派)、ドイツのそのあたりの豊かな伝統に思いを馳せることができる。とりわけヘルダーリンの訳業が高く評価されているところが印象的。ノイベルト・フォン・ヘリングラードなどは、他の凡百の翻訳が原典からいろいろに隔たってしまうのに対して、ヘルダーリンのピンダロスの訳は、逐語訳との批判を受けるほどに通常のドイツ語からすれば破格であろうとも、「一つの原理から生まれた統一体」であり、「原作の芸術としての性格を再現しよう」としたものだ、と絶賛している。ベンヤミンもまた、ヘルダーリンの翻訳を「翻訳の原像」だと断定する。ベンヤミンは翻訳の考え方として、意味すら超えた、意味の彼方にある作品としての本質そのもの(純粋言語と称される)を目指すべきだといい、一種の超越論、あるいはイデア論的な理想を掲げている……。個人的にはヘルダーリン訳そのものを見たことがまだないのだけれど、「ギリシア抒情詩の様々な音調を再現」(ヘリングラード)しているとされ、「形式を再現する上での忠実」(ベンヤミン)とされるその訳業、ぜひ見てみたいところ。

現象学的思想史?

マリオンに続いて、やはり現象学系の関連でエマニュエル・ファルク『神、肉体、他者–エイレナイオスからドゥンス・スコトゥスまで』(Emmanuel Falque, “Dieu, la chaire et l’autre – D’Irénée à Duns Scot”, PUF, 2008を読み始める。まだ5分の1程度だけれど、これもまたすでにして刺激的。古代末期から中世の神学思想に、現象学的なテーマを読み込むという野心的な論考。とはいえアナクロニズムではなく、神学と哲学の境界ぎりぎりのところに浮かび上がる形而上学的な微細かつ重大な問題を、細やかに検討していくというもの。なにかこう、現象学的思想史(一種の言葉の矛盾だけれど)という様相を呈していたりもする。通常の思想史的な議論とはまたひと味違うのは、結果的にそれらがいかに現象学的なテーマを形作っているかが明らかにされるから(かな?)。こうしてまず第一章ではアウグスティヌスの『三位一体論』から、位格についての考察が取り上げられる。アリウス派への反論として神は実体ではない(付帯性ではいっそうない)とするアウグスティヌスは、第三の道として神は関係性であると論じる–これはまさに革新的な議論となるのだけれど、しかし一方で「ガリレオのごとく」(と著者は述べている)すぐにそれを再び基体としての実体に結びつけて埋もらせてしまう。その議論が神学と形而上学との緊張関係を明るみに出してしまうからだ。かくしてその緊張関係は、解消しえない問題として後世に残される……。

次いで第二章ではヨハネス・スコトゥス・エリウゲナが取り上げられる。そこでは、エリウゲナが偽ディオニュシオス・アレオパギテスの翻訳作業を通じて、後者の否定神学のいっそうのラディカル化を図ったことが指摘されている。存在の直接的な否定にすぎなかった「否定」は、そこで「非・存在」と解釈され、さらに慈悲による存在の彼方への接近も、善そのものが超えられない「無」そのものと同一視される。無としての神と、そこから生じた存在としての世界……。著者の言うように、まさにこれは存在論を超え出でて現象学へといたる動きのようでもある。

この後の章ではエックハルトが議論されるし、第二部では遡ってエイレナイオス、テルトゥリアヌス、ボナヴェントゥラ、第三部ではオリゲネス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスなどが取り上げられる。というわけで、また面白い部分があればメモしていきたいと思う。

西田哲学

少し前からの続きという感じで、西田哲学についての比較的新しく入手しやすい参考文献(というか入門書・概説書)をずらずら眺めてみる。ベルクソンやドゥルーズとのパラレルな問題機制を取り上げた檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』(講談社現代新書、2005)は、西田哲学のキータームをめぐりながらタイトル通り「生命論」としての側面に光を当てている。初期の意識論的な議論から中期・後期の論理学的・トポス論的な議論への移行に、生命論的な側面が介在しているというふうに読める、ということか。これと対照的なのが、永井均『西田幾多郎–<絶対無>とは何か』(NHK出版、2006)。こちらはむしろ意識論の中核部分から言語哲学の面を拾い出し、その延長線上で絶対無などのタームを考えていこうとしている。こちらはヴィトゲンシュタインなどが引き合いに出されたり。どちらの本も現代的な問題圏からの読みということで、重なる部分も多いものの、置かれている力点の違いが西田哲学の「いろいろな読まれ方」を示唆していて興味深い。

で、そういう読みができるようになる土壌が整ったのは、やはり中村雄二郎の著書あってのことかと思われる。83年の『西田幾多郎』は岩波現代文庫で『西田幾多郎 I』となっているけれど、西田哲学の全体像のまとめや同時代的な言及(中江兆民とかまで)、その概説の批判的な冴えなどからしても、やはりこれがスタンダードな入門書かな、と。同書を見て、上の二書とも違う方向性に引っ張るとしたら、それは「媒介」論のほうではないかという気がした。媒介概念は結構重要な位置づけになっていると思うけれど、それを軸にして全体を見直す、みたいなことも可能ではないか、と。これは案外興味深いものになるかもしれないし。とりあえずは、87年の『西田哲学の脱構築』が『西田哲学 II』として同じ岩波現代文庫に入っているので、これも近々見てみることにしよう。