雑誌と思って取り寄せたら、形態は書籍で、しかも新書版サイズで450ページ強……。なかなか力が入っているなあ、と思ったのが『SITE ZERO/ZERO SITE Vol.2 — 情報生態論:いきるためのメディア』(メディア・デザイン研究所) 。残念ながらあまり書店では見かけないのだが、『Intercommunication』誌もなくなった今、こうしたとんがった人文知の雑誌(?)にはぜひ頑張ってほしいところ。面白い体裁で、右から開くと単独論文や連載などが縦組みで掲載され、洋書のように左から開くと特集「情報生態論」の論考や記事が横組みで掲載されている。特集のほうでは、責任編集者らしいドミニク・チェン氏と西垣通氏の対談が面白い。久々に西垣節を聞いたなあ。
単独もののほうでは、冒頭の宮﨑裕助論文「決断主義なき決定の思考」が読ませる。シュミットの決断主義とデリダの決定の思考とを対比させて、主体に回収されてしまわない「決定・決断」のあり方を考えようというもの。でも、デリダ的な根底をさらうような議論は、テキストへの応答というあくまでリアクショナルなものであって、そこから現実的な政治、物象化した形での政治は出てきようがない感じもするのだけれど……。まさにこれは、存在と存在者のいずれに重きを置くのかといった問題にも通じていく。次に掲載されているカトリーヌ・マラブーの論考は、まさにその存在と存在者(有)との狭間の問いを取り上げているのだけれど、これが西欧の哲学的な深い問いであるというのに(中世はまさに、トマスなどによってそれがある意味で先鋭化した時代だ)、どこか妙にあっけらかんとした(失礼)印象を受けてしまう。そうした問題をハイデガーやレヴィナスやナンシーに限定して読み込もうとしているからなのかもしれないけれど、うーん、相変わらず今ひとつ煮え切らない読後感が残る(苦笑)。
余談だけれども、存在と存在者の差異もしくは狭間に垣間見えるものを、「ファンタスティックなもの」(幻想的なもの?)とするのは西欧の底流の一つ。怪物とか異界とか、そういったものはすべてそこに結びつけられる。最近DVDで見たのだけれど、スティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン監督作品の映画『ミスト』とか、あるいは話題になった『クローバーフィールド』とか、とにかく「外部」のものによって脅かされて、存在者としての人がおのれの存在の根源に向き合わざるをえなくなる、という話になっていて、なるほどこういう基本スタンスからは、たとえば日本版のゴジラのような、怪物がいつしか子供たちのダークヒーローになっていくという話はとうてい出てこないだろうなあ、と納得してしまう。逆に言うと、怪物がそうした根源性をすぐに失ってしまって、あっという間に物象化してしまう風土というのは何だろう、という問題もあるのだけれど(笑)。
*↓深まる晩秋の都内某公園