『現代思想』誌12月号をぱらぱらと。今年はめずらしく何冊か買っている同誌だけれど、12月号の特集は久々のドゥルーズ。けれどもやはり時は移り変わり、収録された論考の傾向も以前とはずいぶん異なっているなあ、と。やっとその実像なり本当の問題系なりに向き合う環境が整ってきたのだろう。個人的にはマヌエル・デランダ「ドゥルーズの存在論」が白眉。ドゥルーズの説くのが単なる本質主義的な実在論ではなくて、いわば抽象構造と個体の産出プロセスの実在論であるという、『意味の論理学』などに出てくる、主体を完全に排した上での個体化論の話を、俗っぽくならずに(笑)まとめあげている。その個体化プロセスで取り沙汰されるのが「強度」概念だけれど、デランダは、ドゥルーズのその概念が、本質主義の形而上学が仮定する形相重視の立場を転覆するものだとしている。「その一方で強度的な考えは、質料そのものに形態発生の力能を認め、本質主義を破壊する」という。
ちょうど最近、稲垣良典『習慣の哲学』(創文社、1981)を読んでいるところなのだけれど、「強度」(intensio)という言葉がトマスにも出ていることを知った。トマスが言うのは、行為・働きの強度ということで、それを次元的量とちからの量とに分けて考えるのだという。で、その後者が問題で、その場合の強度とは、何らかの本性または形相の分有の具合を指す用語なのだという。稲垣氏の引いているトマスの具体例では、愛徳の行為を積むことでそうした行為への適性(habilitas)が増すと、突然、より熱烈な愛の行為が生じ、行為の質に飛躍的な高まりが生じるという話が紹介され、それがいわゆる愛徳の増強(強度の高まり)なのだというように説明されている。これってほとんど創発論じゃないかしらん(笑)。ちょっとトマスのテキストそのものに当たってみないといけないけれど、形相と質料の話とは別に、こうした「強度」論という感じの系譜もたどってみれるかもね。