マリオンのアウグスティヌス論

年越し本の一つとして、ジャン=リュック・マリオンの新著『自己の場所に–聖アウグスティヌスのアプローチ』(Jean-Luc Marion, “Au lieu de soi – L’approche de Saint Augustin”, Presses Universitaires de France, 2008)を読み始める。まだ一章までだけなのだけれど、すでにしてとても面白い。序章で、アウグスティヌスの立ち位置はいったいどこにあるのかと問い始める。思想史的に見て、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義が以前ほど決定的ではなく(それが解釈する側の時代状況でしかない可能性が指摘される)、そもそもアウグスティヌスは哲学的なアプローチを取っているわけでもなく、一方で後世的な意味での「神学的」アプローチともいえない、とされる(このあたり、ややマリオン的なとんがった問題機制な感じもするけれど)。哲学と神学のはっきりとした区別すらないかもしれない。そしてその立ち位置を探るべく、テキストに入り込んでいくわけだけれど、それは続く第一章の、『告白録』の不可思議さへとつながっていく。

『告白録』は哲学書ではないし、厳密な意味での神学書でもない。ではそれは一体何か?そもそも何を告白しているのか?マリオンはそこでの罪の告白が、賛美(神の)の告白と表裏一体になっていることを見、そこからそれが、神についての書ではなく、神に「呼びかける」書であると規定する(しかもそれは、聖書からの引用という言葉の反復によってなされる)。『告白録』の構成自体が(自己の生涯を振り返る前半と、創世記解釈へといたる後半)二重の告白という構造をもち、さらに読者を呼び込んで告白を促すという機能をもっているとし、(アウグスティヌスの)自己、神、他者(読者)の一種独特な関係性を築いていて、「自省録」というよりは「他省録」といった様相を呈するのだという。他者との関係性は、神を身近なものとして介する形でしか結ばれない、と。モンテーニュやルソーの後世の自省録とは決定的に異なるのが、そうした関係性にあるのだ、と。

二章以降は自己、真理、愛、時間といったテーマが扱われるようで、これらもなかなか楽しみ。やや強引な括りがないわけでもないけれど、アウグスティヌスへの現象学的アプローチがどこまで深く潜っていけるのか、ちょっと期待しているところ(笑)。