先日、メレオロジー関連のとある論文のコピーをいただいた(Tさん、ありがとうございました)。アンドレ・ゴドゥ「コペルニクスのメレオロジカルな宇宙観」と題された一本(André Goddu, ‘Copernicus’s Mereological Vision of the Universe’, Early Science and Medicine 14 (2009) 316-339) 。ちょっと妙な読みにくさがあるけれど(「メレオロジー」の用語の持ち上げ方とかに、なんだか違和感を覚えたりもする……)、全体としてはなかなか面白い考察。コペルニクスは地動説の議論において、従来の天動説の何が間違いかというところで、「部分に属するものを全体に属するものと取り違えた」みたいな議論をするのだという。そこで言う部分と全体というのは運動がどこに属するか(地球か、あるいは宇宙か)ということらしいけれど、同著者はコペルニクスの考え方においてこの「部分」と「全体」の推論が大きな意味をもっているとして、まずは論理学的伝統を辿り直すところからアプローチする(コペルニクスがそういう伝統的論理学の教育を受けていたため)。とくに、論理学の教科書をなしていたペトルス・ヒスパヌス(13世紀)の論理学に着目し、キケロとボエティウスに遡るとされる「家と壁」の関係の話などを取り上げている。
ペトルスが挙げているのは、1「家があるならそのパーツもある」2「家がなければパーツもない」3「パーツがあれば家もある」4「パーツがなければ家もない」。で、この2番目と3番目が論理命題として難があるわけだけれど、アベラールなどは、全体というのは部分とその部分がもつ配置を兼ね備えたものと考え、2番目を「家がなければ、『その家をなすパーツ』もない」と解釈して真と認めるのだという。3番目も、「『この家のパーツ』があれば家もある(潜在的に)」と解釈すれば真になる(こりゃちょっと強引だが(笑))、と。さらに後のスコラ学には、部分には存続に関係するものとそうでないものとがある、みたいな議論も出てくるのだそうで(ガンのヘンリクス?)、このあたりもそれなりに錯綜していそうで、やはりいろいろ確認していけば面白そうだ。
このあたりの話は同論文の本筋ではないけれど(コペルニクスが主題だもんね)、いずれにしても、ルネサンスというか初期近代というか、後の時代を考察する論文に案外中世関連のヒントなどがある、みたいなことが、最近やたらと個人的に目につく。うーん、膨大な文献をあれもこれもと消化するのはとうてい無理だとしても、少しばかりはそういう方面も覗いてパースペクティブを拡げるのも有益かな、なんて思ったりもする。