「大乗起信論」論

井筒俊彦のもろ仏教方面の著書は読んでいなかったので、文庫化されている『意識の形而上学』(中公文庫、2001)を読んでみた。うーむ、仏教方面もまたいろいろとややこしい(苦笑)。それでも、存在論的アプローチの第一部の中心をなす「真如」概念や、認識論的アプローチの第二部の「心真如・心生滅」「空・不空」「アラヤ識」あたりまでは、まあなんとなくイメージできるというか(図もあるし)。しかし第三部の個的実存意識の話になると、九段もある「不覚」形成プロセスとか、なかなかに錯綜してくる。基本的に、同じ言葉が複数の意味を担っていたり、異なる意味の語が同じ事象の表裏一体をなしていたりするという話なので、原テキストを読み解いていくのは一筋縄ではいかないのだろうなあ、と。その意味では井筒氏のこの見事な捌き方は、いつもながら実にほれぼれするような切れ味、という感じ。

それにしても、最初のほうの真如を扱った箇所で、それが仮名であるという話ついでに、同種の仮名としてプロティノスの「一者」が定義が引かれているのが興味深い。さらには老荘思想の「道」も、ウパニシャッドの「梵」も、アル・アラビーの存在一性論も同様に、根源的な無分節を基礎としているとされ、広義のアジア圏に広く共有されている思想パターンらしいことが示されている。うーん、なるほど、アジア的なものとしてのプロティノス……いいっすね、『エンネアデス』もしばらくご無沙汰しているけれど、ちょっとまた読み直したくなってくるっすね……。