形而上学的な抽象知に、神学的な直観知を対立させるスコトゥスは、認識についての理論の新たな途を開いたのだという。つまりこういうこと。直観知では、精神による直接的な把持が問題になるため、対象の「現前性・実在性」(プレゼンス)は捨象される。ところがそうすると、そこから現前性・実在性に依存しない新しい「現実性」の概念が描き出されるようになる。で、はるか先のスアレスにまで至るのだ、と。というわけで、第二部第一章の中心的テーマはその直観知のリアリティだ。抽象知はかならず何かを媒介にする認識形態。当然そこにはスペキエス(認識の媒体)論の長い系譜があるわけだけれど、一方でスコトゥスは、その「スペキエスによる代示」に対して「おのずと現出する対象」を区別する。直観知が把握するのは一般にモノの本質、何性だとされるわけだけれど、そういう本質、何性は「おのずと現出する」というわけだ。でもこれは結構曖昧な規定だ。そしてこの曖昧な規定が、その後長く議論の俎上に上り、直観知をめぐる考察を深化させていくらしい。
たとえばペトルス・アウレオリ(フランシスコ会、スコトゥスの弟子?)。「知解とは一種の運動である」と考えるアウレオリは、その運動はまず「対象との対峙」という現象学的な側面をもつと考える。この現象学的な対峙に、対象の代わりとなる意志が現れるのだとし、そこに対象の現実的な現前が捨象されることを見てとる彼は、「直観知も一種の抽象知なのだ」という説を唱えるようになる。で、そこで対象を媒介するのは、現れるものの「対象性」そのものにほかならない、と彼は主張する。これはまさに一大転換で、スペキエスは「何かを担う」ものではなく、「対象として現れる」ものになる……。この説はリミニのグレゴリウスやジャン・ド・リパなどの批判を経て、結果的にスペキエス概念を脱してくのだけれど、一方では精神的な事象からの客観的対象の遊離という議論も出てきて(ミドルトンのリチャードなど)、スペキエスは「偽の形象(figmentum)」という扱いになっていく。そしてこれを事実上葬るのがオッカムの唯名論ということになる。
けれどもオッカムは、経験的「現実」の直接的理解と言うだけでその内実についての議論はしていないという(うん、その話はどこか余所でも聞いた気がする)。そこで持ち出される「esse-existere(実在的存在)」という概念は、逆説的ながらガンのヘンリクスの(アヴィセンナから着想された)「esse-essentiale(本質的存在)」(本質に固有の存在を認める立場)に戻っているようにも見えると著者は指摘する。なにやらとても実在論っぽいというわけだ。その新しい「現実」を精緻化する人物としてあげられているのは、むしろサン=プルサンのドゥランドゥス(ドミニコ会)だったりする。対象がもつ真実性について考察するドゥランドゥスは、対象概念に事物の純粋な外在性ではない中間物、いわゆる縮減的有(ens diminutum)を見るという。これは14世紀以降の思想史的な流れでもあったらしい。
スアレスはというと、このドゥランドゥスの議論(中間物の議論)は斥けるものの、「対象性」を前面に出して、それをもとに真実性の文脈に位置づけるという基本的スタンスは温存しているという。結果として、スアレスの「レス」概念はまさにそうした、「対象性」に縮減された限りでの「モノ自体」なるものに帰着するのだという。スアレスは唯名論には批判的なのだけれど、そのレス概念は上のガンのヘンリクスにも似ているし、さらにはオッカムに至る唯名論サイドの議論にもやたらと近いということにもなるらしい。そのためエティエンヌ・ジルソンなどは、「スアレスの本質主義」といった言い方さえしているのだとか。うーむ、このあたり、なかなか複雑そうなだけに、ぜひ原テキストで確認したいところ。さらに、こうなってくると知性論にとどまらないスアレスの形而上学的なスタンスにも関心が出てくる。で、それがまさに次章のテーマらしい。