エックハルト

エックハルトというとどうしても上田閑照氏の研究などが思い浮かんでしまうが(笑)、それとはまた違う視点からの研究も出てきているらしい。というわけで、松田美佳『マイスター・エックハルトの生の説教』(行路社、2010)を眺めているところ。まだ全体の3分の1ほどの、いわば「さわり」を読んだところ。エックハルトの存在概念や目的論などについて、トマスとの比較で浮かび上がらせている。なるほど、エックハルトが師匠の議論をいかに「拡張」しているかというあたりがなかなかに新鮮かも。珍しく博論をあまりリライトしていない印象の文章なのだけれど、案外こういう議論にはこうした形式が合っているのかもなあ、ということをちょっと思った。うん、ジャン・ベダールの小説(人間臭いエックハルトが描かれていた)を抜きにしても、エックハルト像というものもさらに刷新されていってほしいところ。いずれにせよ、後半はエックハルトの倫理論(これもトマスとの対照で語られていくみたいだ)に入っていくということで、これまた楽しみではある。個人的には秋に出る教材がやっと校了したので、晴れて本腰を入れていろいろ積ん読とか見ていきたいと思っているところ(笑)。

リュート偽作集(笑)

これはキワモノだけれど、ある意味「歴史的」な盤かもしれない(?)。ウラディーミル・ヴァヴィロフ&サンドル・カロスの『ルネサンス・リュート音楽』(Renaissance Lute Music)という一枚。録音は前半が1970年(ヴァヴィロフ)、後半が1975年(カロス)。この両者、ロシアの古楽復興に一役買ったギタリスト・リューテニストなのだけれど、特にこのヴァヴィロフはいわくつき。ルネサンス期の作曲家の名前で自作を発表しまくっていたというのだ。ウィキペディアのエントリにもあるけれど、ダ・ミラノとされる「カンツォーナ」、カッチーニとされる「アヴェ・マリア」、ニグリーノとされる「リチェルカーレ」などはこの盤にも収録されている。ほかにも、ノイジドラー作となっているシャコンヌなども、まったくもって当時の様式ではなかったりする(笑)。うーむ、ここまでやるとは、ある意味あっぱれか?(苦笑)。でも、偽作指向というのは共感しないでもないのだけれど(個人的に偽書とか作りたいし)、ならば時代的な様式などもじっくり研究しないと。こんなにテキトーでは困るよなあ。ま、1960年代くらいだとちょっとそれは酷かという気もしないでもないが……。

というわけで、ちょっとキワモノ好みな方にはお薦め(苦笑)な一枚か。後半のカロスは、結構渋い録音かも。全体としてはソロだけでなく合奏もあって、そのアレンジ加減なども含めて多面的に楽しめる。

占星術反駁の歴史

念願の、金森修編『科学思想史』(勁草書房、2010)を眺め始める。……とはいっても、相変わらずあまり時間が取れないので、さしあたり個人的に最も関心のある第七章「中世における占星術批判の系譜」(山内志朗)にざっと目を通しただけ。大筋は、占星術の成立からアウグスティヌスによる批判、アラビア世界での勃興、トマス・アクィナスの批判、ニコル・オレームの批判を順次取り上げ、ポイントをまとめているという構成。アウグスティヌスやトマスの批判が、占星術の内的な整合性の批判ではなく、ある程度その術的立場を認めつつ、個人の命運などには適用できないという「外在的批判」なのに対して、オレームにいたってようやく内在的批判が一部見られるようになるというのが全体的な流れだ。これは占星術批判をめぐる総論のような感じ。

うん、13世紀ごろは確かに占星術はある程度受容されていたようで、メルマガのほうで取り上げたエギディウス・ロマヌスの『子宮内の人体形成について』(“Aegidii Romani Opera Omnia II.13 – De formatione humani corporis in utero”, ed. Romana Martorelli Vico, Sismel-Edizioni Galluzzo, 2008)などを見ても、星辰は魂には影響しないものの、自然に属する身体には何らかの傾向をもたらすという見解が、ほとんど通説であるかのように記されている。上の山内論文からも漠然と読み取れるけれど、トマスはもちろんオレームなどでもそうした影響関係は認められているような感じで、そうした身体面への星辰の影響というのは、中世の占星術批判からはこぼれ落ちているように思われる。で、個人的にもちょっと調べてみたいと思っている医療占星術などは、まさにそうした批判対象外の術的思想に立脚しているはず。それすら批判されるようになるようなことはなかったのか、あったとしたらいつごろ、どのようにして始まったのか、などなど、このあたりの興味は尽きない(笑)。

ブーニュー

閑話休題的だけれど、すっごく久しぶりにダニエル・ブーニューの本を眺めているところ。例によってあまり時間が取れないので、ちらちらと眺めている感じ(苦笑)。でもこれ、初の邦訳。ブーニュー『コミュニケーション学講義』(水島久光監訳、西兼志訳、書籍工房早山)。実はこの版元の別の刊行物をほんのちょっとだけお手伝いしてのいただきもの(ありがとうございます)。メディオロジーでドゥブレを支える理論派ブーニューの、たぶん最もとっつきやすい一冊。コミュニケーション学(もちろんメディオロジー絡みも含めて)の基本線を手堅くまとめた入門書という感じ。原書は1998年刊だけれど、2002年に改訂版が出ていたらしい。ドゥブレがどちらかというと客体的に組織論的な面に注力するのに対して、ブーニューはコミュニケーション学の側からメディオロジー的問題を眺める。そのため主体の問題などが明確に射程距離内に入ってきて、また異なった趣になっている、というのが全体的な印象。しばらく遠ざかっているので忘れていたけれど、ふいにいろいろ蘇ってきた(笑)。ちらちらとブーニュー本を読んでとりわけ個人的に思い出したのは、メディアと主体概念とが渾然一体となった生成変化的なプロセス論みたいな「変な」鬼子のようなものが出てこないかなあという漠然とした期待。ドゥブレともブーニューとも違う、どこかとんがった著者とかメディオロジー界隈から出てこないもんだろうかなんて、以前は思ったりもしたのだが……。ドゥブレは以前、着想源の一つにドゥルーズを挙げていたと思うけれど、そのあたりをもっと原点回帰的・ドゥルーズ的に極端化したもの、みたいな。うーん、まだそういうのは見あたらず、ちょっと残念?(笑)。

プセロス「カルデア神託註解」 2

Καὶ φήσιν ὃτι καὶ ¨εἰδώλῳ μερίς¨ ἐστιν ¨εἰς τόπον ἀμφιφάοντα¨ · τοῦτ᾿ ἔστιν · ἡ ἄλογος ψυχή, ἥτις ἐστὶν εἴδωλον τῆς λογικῆς ψυχῆς, καθαρθεῖσα δι᾿ ἀρετῆς ἐν τῷ βίῳ, ἄνεισιν εἰς τὸν ὑπὲρ σελήνην τόπον μετὰ τὴν διάλυσιν τῆς τοῦ ἀνθρώπου ζωῆς · καὶ ἀποκληροῦται εἰς τόπον ἀμφιφαῆ, τοῦτ᾿ ἔστιν ἀμφοτέρωθεν φαίνοντα καὶ ὁλολαμπῆ. Ὁ μὲν γὰρ ὑπὸ σελήνην τόπος ἀμφικνεφής ἐστι, τοῦτ᾿ ἔστιν ἀμφοτέρωθεν σκοτεινός. Ὁ δὲ σεληνιακός, ἑτεροφαὴς ἢ ἑτεροκνεφής · τοῦτ᾿ ἔστι · τῷ μὲν ἡμίσει μέρει λάμπων, τῷ δὲ ἡμίσει σκότους μεστός. Καὶ γὰρ καὶ αὐτὴ ἡ σελήνη τοιαυτή ἐστι, τῷ ἡμίσει μέρει πεφωτισμένη καὶ τῷ ἡμίσει ἀφώτιστος. Ὁ δὲ ὑπὲρ τὴν σελήνην τόπος ἀμφιφαής ἐστιν ἢτοι διόλου πεφωτισμένος. Λέγει οὖν τὸ λόγιον ὅτι οὐ μόνον ἡ λογικὴ ψυχὴ ἀποκληροῦται εἰς τὸν ὑπὲρ σελήνην τόπον τὸν ἀμφιφαῆ, ἀλλὰ μερίς ἐστι καὶ τῷ εἰδώλῳ αὐτῆς, ἤτοι τῇ ἀλόγῳ ψυχῇ, εἰς τὸν ἀμφιφαῆ τόπον ἀποκληρωθῆναι, ὅταν διαυγὴς καὶ καθαρὰ ἐξέλθοι τοῦ σώματος.

そして神託は「像にも光輝く場所に入る部分が」あると述べている。つまりこういうことだ。非理性的魂は理性的魂の像だが、生に際して徳により清められると、人間的生から解放された後に、月の上の場所へと上昇する。そして光に満ちた場所へと選び出されるのだが、そこは両側から照らされ、すべてが輝く場所である。というのも、月下の世界はすべてが闇に包まれ、両側とも暗闇となっているからだ。月の世界は、一方は照らされ他方は闇の世界である。つまり半分は光輝き、半分は闇に覆われている。というのも、月もまたそのようなものだからだ。半分は光によって照らされ、もう半分は闇に沈んでいる。一方、月の上の世界は光に溢れている。あるいはすべてが照らし出されている。したがって神託は、単に理性的魂が光に満ちた月の上の場所へと選び出されると述べるにとどまらず、その像である非理性的魂にも、肉体から離れ半透明かつ浄化する際には、光に溢れる場所へと選ばれることに与りうるとも述べているのである。