イスラム世界の天文学

BK1の紹介ページにも取り上げられていた、三村太郎『天文学の誕生 – イスラーム文化の役割』(岩波書店、2010)を読む。120ページぐらいの小著ながら、実に濃い内容。天文学がギリシアからアラビア世界へとどう受け継がれていったかという問題を、インドの天文学の影響や、イスラム宮廷文化の戦略などを絡めて描いていて興味深い。著者の三村氏の名は、一年くらい前に『理想』の中世哲学特集で論考を読んだ記憶があって覚えていた。イスラム教が異教徒との対話過程で論証の必要に目覚め、その目的で徴用したギリシア語を解するキリスト教系の医者兼アドバイザーを通じてアリストテレス思想を受容していくという流れをまとめた論考だったと思うけれど、その視点は本書にも生かされている。今回は天文学ということで、枕としてコペルニクスの話がでたり、プトレマイオスの天文学や後世の批判者たちの考え方が図示されていたりして、そのあたりも面白く読めるのだけれど、やはり上の論考と同じ流れでの、イスラム世界の学問的深化というあたりがやはりハイライトかな、と。副題のイスラム文化の役割こそが、本書のまさに中心主題。残念ながら最後は枕のコペルニクスへと、ここから先へと向かうのだというところで終わっているけれど、西欧へ、コペルニクスへという流れをまとめ上げる研究もぜひ期待したいところ。

個人的には、アラビア世界がプトレマイオスを受容する一方で、インドの数学・天文学も巧みに取り込んでいたというあたりの話がとても興味深い。西欧中世を中心にしてアラビア世界をもちょろちょろと眺めるみたいな感じだと、どうしてもインド方面にまではなかなか拡がっていかないので、ある意味とても新鮮(笑)。

スコトゥスの言語哲学

メルマガの方でも取り上げた、ケンブリッジ・コンパニオンシリーズの一冊、『ドゥンス・スコトゥス』(“The Cambridge Companion to Duns Scotus”, ed. Thomas Williams, Cambridge Univ. Press, 2002)。スコトゥス思想のテーマ別に解説論文が12本収録され、このシリーズならではだけれど、その立体的な輪郭が浮かび上がる。そのうちの1本、「ドゥンス・スコトゥスの言語哲学」(ドミニク・ペルラー)はメルマガの方でも触れたけれど、これが全般的になかなか面白いので、以下に前半部分の要点をまとめておこう(メルマガの補遺ということで)。

まず、当時は語の意味作用に関するモデルが大きく二つあったという。語が指すのは指示物そのものだという直接モデルと、語が指すのは精神の中の知的スペキエスだという間接モデル。スコトゥスは後者に重きを置きつつ、間接モデルの問題点を批判的に乗り越えようとする。その問題点というのは、語が対応するのが知的スペキエスだとすると、たとえば二人の話者が言葉を交わす際、それぞれが別個のスペキエスを指すことになってしまい、共通理解に至らないという帰結になってしまうということ。スコトゥスはこの問題に、スペキエスを三つの側面から考えることで対応する。つまり質料的な側面、表象的な側面、精神外の個物的側面の三つ。

とはいうものの、スコトゥスは純粋な間接モデルの信奉者というわけでもなく、語が示しているもののうち、その表象的な側面の内容は、厳密には外的世界の事物の「本性」だとしている。たとえば木の知的スペキエスをもつ場合、その表象的な面での内容物は、外部世界の木がもつまさにその本性に他ならないという。内部世界と外部世界に二つの本性があるというのではなく、同じ一つの本性が二様の存在様式をもっているということらしい。

この考え方の背景には、事物の本性そのものは、個物にあろうが知的スペキエスにあろうが関係ないという形而上学的な思想があるらしいが、それはともかく、ここでもう一つ問題が出てくる。単称名辞(固有名詞などですね)の場合には、そういう共通の本性を表すのではないように思われるという点だ。これについてスコトゥスは、本性にはもとより多くの個物の属性となりうるものと、単称に個別化されたものとを区別する。スコトゥスの戦略の一つは、こうした分割操作にあるように思える。

それと並行する形で、抽象語の問題も出てくる。抽象語には、「人間」のような本質を表す名辞と、「白さ」のような偶有を表す名辞があるわけだけれど、13世紀後半に多くの論者がこのうちの偶有を表す名辞に関心を向けたという。それらが具体語とどう関係するのか、また、それら抽象語が述語をなした場合にはどう理解すればよいのかといった問題が提示されていたというわけだ。スコトゥスは、たとえば「白さ」は個別の主体への内在を考慮しない場合の本性を表し、「白い」は主体になにがしかの質を埋め込む場合のその本性を表す、と考えているらしい。したがって文(命題)においてそれらは互換できないことも説明される(「彼は白い」とは言えても、「彼は白さだ」とは言えない云々)。とにかく重要なポイントは、いずれにしても語が意味しているのは「本性」であり、抽象的・具体的な語の違いが、どういう様態での本性を表しているのかに対応するということのようだ。

ラテン語名句小辞典

先日ちょっと情報として触れた『ラテン語名句小辞典』(野津寛編、研究社、2010)を早速ゲット。これは小さいながら好著。頻出頻度が大きいとされるラテン語の引用句1000項目ほどを、出典関連の短い解説のほか文法なども含めて一種の学習書に編んだもの。意味はもちろん、母音の長短も記されているし、カタカナでの読み方も並記されている。読み物としても面白い辞書。個人的には、ずらずらっと眺めるだけでも結構楽しい。解説部分などを読んでいると、原典を読みたくなってくる(笑)。うん、ギリシア語での同じような辞書もぜひ作っていただきたいところ。

デイヴィドソン

ドナルド・デイヴィドソン『真理と述定』(津留竜馬訳、春秋社)を読む。やや晦渋なところはあるとはいえ、これも滅法面白い(笑)。基本的は問題は、命題の真偽はどこでどう決まるのかというもの。デイヴィドソンは分析哲学系を中心に様々な先行研究を吟味・批判しながら、漸進的に自説へと突き進んでいく。自説へといたる前段階の各論の吟味が、複雑ながらとても魅惑的に見えるから不思議だ。軽快なメスさばきというところ。前半が真理の問題、後半が述定の問題。前半ではとくにタルスキによる真理定義(「引用符解除的」と称されるもので、論理命題が文のトークン(具体物)といかにして同値になるかという話)の批判が縦糸となっていて、最終的には文のトークンを産出する言語使用者との結びつきを再考するというアプローチへと至る。話し手と聞き手(解釈者)が、最低限は字義通りの意味を共有するとの前提から、そこで交わされる文の命題内容も、両者にとって共通の何かによって決定されるはずだということになり、ではそれは何かという問題が後半に持ち越される。

で、後半では、今度はプラトンやアリストテレスによる述定問題(文において命題がどう統一されるのかという問題)の発見をさらってみせ、そこから近現代の論者(とくにラッセルやストローソン)の名詞と述語をめぐる数々の議論を振り返り、さながらオッカムの剃刀を駆使しまくって、不要な項の設定などをなぎ倒していき、しまいには「述語が言語外の実在と個別の関係をもつことはない」という、傍目にはドキっとするような議論へとたどり着く。近年の分析哲学では述語の範疇が大きく拡張されているという話なので、この厳密に唯名論的な立場はなにやら甘く危険な香りがする(笑)けれど、それはともかく、述語(動詞)をある種の純粋な操作子に見立てると文としての意味の把握が楽、みたいな実感は外国語学習者ならたぶん一度ならず感じることだと思うので、案外これも「普通の感覚」の敷衍なのかもしれない、なんてことを考えたり……。

で、話を戻すと、真偽を決定するものは述語についての何なのかという問題が残っているのだけれど、述語は(フレーゲ的に)不完全さをもった関数表現的なものとされ、結局は概念を真理値に写像するものだとされる(本物の関数は対象を対象に写像するのに対して:ダメット流)。うーむ、ある意味ミニマリスト的なテーゼ。これの是非はさしあたり置いておくしかないけれど、それにしてもここまでたどり着くまでに同書は実に紆余曲折を孕んでいて、そのあたりが読む楽しみでもあるのだけれど、一番最後にタルスキに戻り、その再評価(形式意味論の手法を自然言語に適用しても、真理は定義できないということを早々と論じていた)が切々と語られる下りはなにやら感動的でもある。

プセロス「カルデア神託註解」 1

Τοῦ Ψελλοῦ ἐξήγησις τῶν χαλδαϊκῶν ῥητῶν

Ἔστι καὶ εἰδώλῳ μερὶς εἰς τόπον ἀμφιφάοντα.

Εἴδωλα λέγεται παρὰ τοῖς φιλοσόφοις τὰ συμφυῆ μὲν τοῖς κρείττοσιν ἐλάττονα δὲ ἐκείνων τυγχάνοντα · οἶον συμφυὴς ὁ νοῦς τῷ θεῷ, καὶ τῷ νῷ ἡ λογικὴ ψυχή, καὶ τῇ λογικῇ ψυχῇ ἡ ἄλογος, καὶ τῇ ἀλόγῳ ψυχῇ ἡ φύσις, καὶ τῇ φύσει τὸ σῶμα, καὶ τῷ σώματι ἡ ὕλη. Εἴδωλον οὖν τοῦ μὲν θεοῦ ὁ νοῦς, τοῦ δὲ νοῦ ἡ λογικὴ ψυχή, τῆς δὲ λογικῆς ψυχῆς ἡ ἄλογος, τῆς δὲ ἀλόγου ἡ φύσις, τῆς δὲ φύσεως τὸ σῶμα, τοῦ δὲ σώματος ἡ ὕλη. Ἐνταῦθα δὲ τὸ χαλδαϊκὸν λόγιον εἴδωλον φησι τὴν ἄλογον ψυχὴν τῆς λογικῆς. Συμφυὴς γὰρ αὐτῇ ἐν τῷ ἀνθρώπῳ, καὶ χείρων ἐκείνης.

プセロスによるカルデア神託註解

「像にも、光輝く場所に入る部分がある」

哲学者たちによれば、像とは上位のものと性質を共有しつつ、それらに対して実は下位であるものと言われる。たとえば知性は神と性質を共有するし、理性的魂は知性と、非理性的魂は理性的魂と、ピュシスは非理性的魂と、肉体はピュシスと、質料は肉体とそれぞれ性質を共有する。そんなわけで、知性は神の像であり、理性的魂は知性の像、非理性的魂は理性的魂の像、ピュシスは非理性的魂の像、肉体はピュシスの像、質料は肉体の像なのである。ここでカルデア神託は、非理性的魂は理性的魂の像であると述べているが、それは人間のうちにある非理性的魂が、理性的魂と性質を共有しつつそれに劣るからである。