このところの諸々

*昨日はリュートの師匠のリサイタル。去年は腰痛で行けなかったので二年ぶりに、その技を堪能する。いつもながら、新しいことに挑戦する姿勢がすばらしい。今回は新作テオルボによるオール・テオルボ・プログラム。これはめずらしい試み。前半はバロック時代のロベール・ド・ヴィゼー、後半はルネサンス末期というか移行期のカプスベルガー。うーむ、どちらも大変面白い。後半のカプスベルガーの「癖モノ」的なところがたまらなくいいっすね。

*例のハイブリ(Hybrid W-ZERO3)はその後は順調。昨日のリサイタルの帰り、初めて内蔵GPSを試してみる。モバイルGoogleマップで、PHSだけの通信。おー、確かにゆるゆると現在位置が出る。結構正確なのが意外だった(笑)。ハイブリはどうも全般的に、最初は感度とか悪いのだけれど、使っているうちにこなれてくる感じだ。Googleマップは初期設定では位置情報が取れなかったのだけれど、設定を「手動、com0、9600」にしたらうまくいったし。あと、ハイブリのカメラは結構気に入っている。500万画素で少し前の単体デジカメ並み。先日遊びに行った某植物園の写真を載せておこう。

懸案だった語学教材が刷り上がって届く。その名もずばり『時事フランス語』。中級以上向けの、ちょっとハードな教材になった……かな(?)。ウリはルモンドのニューズレターを教材にしていることと、わりと新しめの語彙をいろいろ入れていることかしら。東洋書店刊で、近日発売の予定です。ご興味のある方はぜひ。

プセロス「カルデア神託註解」 6

…Μὴ ᾿ξάξῃς, ἵνα μή τι ἔχουσα
ἐξίη…

Τοῦτο τὸ λόγιον καὶ Πλωτῖνος ἐν τῷ περὶ ἀλόγου ἐξαγωγῆς τίθησιν. Ἔστι δ᾿ ὁ λόγος παραίνεσις ὑπερφυής τε καὶ ὑπερήφανος. Φησὶ γὰρ μηδέν τι τὸν ἄνθρωπον πραγματεύεσθαι περὶ τὴν ἐξαγωγὴν τῆς ψυχῆς, μηδὲ φροντίζειν πῶς ἂν ἐξέλθοι τοῦ σώματος, ἀλλὰ τῷ φυσικῷ λόγῳ τῆς διαλύσεως παραχωρεῖν. Αὐτὸ γὰρ τὸ ἐμμέριμνον εἶναί τινα περὶ τῆς τοῦ σώματος λύσεως καὶ τῆς ἐντεῦθεν ἐξαγωγῆς τῆς ψυχῆς μετάγει τὸν νοῦν ἀπὸ τῶν κρειττόνων καὶ ἀπασχολεῖ περὶ τὴν τοιαύτην φροντίδα, ἔνθεν τοι οὐδὲ καθαίρεται τελεώτατα ἡ ψυχή. Ἀσχολουμένοις οὖν ἡμῖν περὶ τὴν ἀνάλυσιν, ἐὰν τηνικαῦτα ὁ θάνατος παραγένηται, οὐκ ἐλευθέρα παντάπασιν ἔξεισιν ἡ ψυχὴ ἀλλ᾿ ἔχουσά τι τῆς ἐμπαθεστέρας ζωῆς. Πάθος γὰρ ὁρίζεται ὁ Χαλδαῖος τὸ φροντίζειν περὶ τοῦ θανάτου τὸν ἄνθρωπον. Δεῖ γάρ, φησί, μηδενὸς ἑτέρου φροντίζειν ἢ τῶν κρειττόνων ἐλλάμψεων, μᾶλλον δὲ μηδὲ περὶ τούτων φροντίζειν, ἀλλ᾿ ἀφεικότα ἑαυτὸν ταῖς ἀναγούσαις ἡμᾶς ἀγγελικαῖς ἢ θειοτέραις δυνάμεσι καὶ τὰ τοῦ σώματος μύσαντα αἰσθητήρια, εἰπεῖν δὲ καὶ τὰ τῆς ψυχῆς, ἀπολυπραγμονήτως καὶ ἀνεννοήτως ἕπεσθαι τῷ καλοῦντι θεῷ.

「……(魂を)排出させてはならない。それが何かを引き連れて外へと出ないように……」

この神託を、プロティノスも非合理的な排出についての論に入れている。この論考は並外れて優れた勧告をなしている。というのも同書は、いかなる人間も魂の排出に関わってはならず、魂をどう肉体から離すか考えてもならないと述べ、むしろ自然の分離の法則に道を譲れと諭しているからである。なぜかというと、肉体からの分離、そこからの魂の排出について思い悩むことは、知性をより優れたものから逸らして、魂が完全には純化しないそのような思索に委ねてしまうことを意味するからだ。離脱に関心を注ぐ私たちに、もし時を同じくして死が訪れたなら、魂はあらゆるものから完全に解放されることにはならず、なんらかの生の苦しみを抱くことになってしまう。というのもカルデア人は、苦しみとは死をめぐる人間の憂慮のことと定義しているからである。より優れた啓示の光を置いてほかのことを憂慮してはならない、あるいはむしろ、そもそも憂慮などしてはならない、と彼は言う。むしろ私たちを高みへと導く天使の力、より神的な力へとみずからを委ねよ、と。また、肉体の感覚器官を閉じ、さらには魂の感覚をも閉じて、余計な干渉も思慮も排しつつ、呼び寄せる神に従え、と。

ストア派と中世

9月末ごろに出ていたらしい『中世思想研究 52』(中世哲学会編、2010)を眺める。おー、このところ同論集は扱うテーマが拡がってきて、前にも増して面白い論考が散見されるように(笑)。『原因論』と『神学綱要』(プロクロス)の落差をトマスがどう捉えていたかという問題を論じたものや、表象力という観点からアルベルトゥス・マグヌスとアヴィセンナの比較をしたもの、アヴィセンナ(イブン・シーナー)の預言者論を扱ったものなど、うーむ、いろいろ細かな点で勉強になる。で、特集は「中世哲学とストア派倫理学」。初期教父からスコラ前夜まで(アンセルムスまで)をカバーしている。うーむ、これもなかなかに興味深く、かつ難しいテーマ。そういえば12世紀のソールズベリーのジョンあたりにも、たとえばキケロの言及などはあって、一種の「キケロ主義」があるということが以前から指摘されたりしていたっけ。セネカの影響関係というのもありそうで、各地の修道院が写本を所蔵していたという話も聞く。でも、思想的な伝播関係を厳密に追うような研究はどれくらいあるのかしら……。また、さらに広くストアという括りにすると、それだけで一気に見通しが悪くなってしまう気も(苦笑)。

今回の特集の論考を読むと、なるほどギリシア教父(バシレイオスが取り上げられている)には、ストア派の倫理学的立場をキリスト教的に吸い上げていた側面が確かにありそうに思えるけれど(土橋論文)、ラテン教父になるとまた話が違ってきて、新プラトン主義やアリストテレス思想と混じり合い、「ストア的要素」は純粋には取り出せない(荻野論文)のだという。そうなると、指摘されているとおり(山崎論文)、ストア派の直接・間接的影響そのものよりも、対象とする研究対象(ここではアンセルムス)にストア的な側面があるかどうかを見る、というアプローチに切り替えるしかないのかもしれない(というか、そのほうが論文的には生産性が上がるのかもしれない)。けれども、長期的にはやはり受容の問題に直接切り込んでいただきたいようにも思う。もちろんその難しさは容易に理解できるけれど……。また上のアプローチを取るにしても、たとえばコスモロジー的な面まで含めて俯瞰するような場合には、ストアと教父たちとの間にあるのが連続性か不連続性かという大きな問題も浮き彫りになってくるようで(樋笠論文とそれへの出村質問)、当然ながらなかなか一筋縄ではいかない(まさにそこが面白いところ……ではあるのだろうけれど)。

久々の新刊ウィッシュリスト

しばらく新刊情報の備忘録をつけていないなあということで、久々に(笑)。

このところ、中世がらみの総論的な書籍がいくつか目につく。たとえば、まず『知はいかにして「再発明」されたか』(マクニーリー&ウルバートン著、冨永星訳、日経BP社)。これは近所の本屋にも平積みになっていて、ちょっとだけ立ち読みさせてもらったけれど、図書館、修道院、大学などから、文芸共和国(レピュブリック・デ・レットルかしらね。これは「文壇」とか訳すのだぞ、などと昔は習ったものだが……(笑))を経て20世紀まで、知の組織化の歴史を大局的に俯瞰するという内容。意外に要所要所は記述が細かい印象。同じく、イスラム世界の科学・思想などをこれまた大局的にまとめた一冊らしいのが、『失われた歴史』(M.H.モーガン著、北沢方邦訳、平凡社)。著者が作家・ジャーナリストだということで、読みやすいのではないかと期待(笑)。

岩波は相変わらず中世もの(広義の)が目白押し。すでに刊行されている『「私たちの世界」がキリスト教になったとき』(ポール・ヴェーヌ著、西永良成、渡名喜庸哲訳、岩波書店)は、著名なローマ史家ヴェーヌによるコンスタンティヌス論(評伝なのかしら?)。面白そう。中世プロバーものとして個人的に大いに期待しているのは、『カラー版ヨーロッパ中世ものづくし』(キアーラ・フルゴーニ著、高橋友子訳、岩波書店)。図版とか楽しみ〜(笑)。ついでに、78年の『中世の産業革命』(ジャン・ギャンペル著、坂本賢三訳、岩波モダンクラシックス)も再刊。この人の名前、ジンペルなのかジャンペルなのかギンペルなのか、いまだに不明。そのあたり何か言及していないかしら。

それからこの秋の岩波ものの期待の星は、なんといっても『バウドリーノ』上下巻(ウンベルト・エーコ著、堤康徳訳、岩波書店)。エーコの小説作品としては4つめの邦訳。久々の中世もので、フリードリヒ・バルバロッサの養子になった主人公の冒険活劇だそうで。早く読みたいぞ。あと、個人的に『タルムードの中のイエス』(ペーター・シェーファー著、上村静ほか訳、岩波書店)なんてのも、ちょっと見てみたいところ。ユダヤ教側からのイエス像ということでしょうね、きっと。

すでに刊行されて評判らしいものとしては、『イタリア古寺巡礼』(金沢百枝、小澤実著、新潮社)や、『異端者たちの中世ヨーロッパ』(小田内隆著、日本放送出版協会)あたりもぜひ目を通したいところ。またビザンツ関連では、『ビザンツ 驚くべき中世帝国』(ジュディス・ヘリン、井上浩一監訳、白水社)なんてのがもうすぐ刊行らしい。このあたりも注目したい。専門書界隈では、『中世ヨーロッパの祝宴』(水田英美ほか著、渓水社)は相変わらずの論文集シリーズ。あと、『中世盛期西フランスにおける都市と王権』(大宅明美著、九州大学出版会)も面白そうなところではある。

今月はだいたいこんなところかしら。ま、例によって取りこぼしもありそうだけれど、それはまた今度ということで(笑)。

(17日:リンク直しました(苦笑))

プセロス「カルデア神託註解」 5

Παραινεῖ οὖν ἵνα καὶ αὐτὸ τὸ σῶμα, ὅπερ φησὶν ¨ὕλης σκύβαλον¨, πυρὶ θείῳ ἐκδαπανήσωμεν, ἢ ἀπολεπτύναντες ἐς αἰθέρα κουφίσωμεν, ἢ μετεωρισθῶμεν ὑπὸ θεοῦ εἰς τόπον ἄϋλον καὶ ἀσώματον, ἢ ἐνσώματον μὲν αἰθέριον δέ, ἢ οὐράνιον · οὗ δὴ τετύχηκεν ὅ τε Θεσβίτης ῾Ηλίας καὶ πρὸ τούτου ᾿Ενώχ, μετατεθέντες ἀπὸ τῆς ἐνταῦθα ζωῆς καὶ εἰς θειοτέραν λῆξιν ἀποκαταστάντες, καὶ ¨μηδὲ τὸ τῆς ὕλης σκύβαλον¨, ἤτοι τὸ ἑαυτῶν σῶμα, ¨κρημνῷ¨ καταλείψσαντες. Κρημνὸς δέ ἐστιν, ὥσπερ εἰρήκαμεν, ὁ περίγειος τόπος. Τὸ δὲ τοιοῦτον δόγμα εἰ καὶ θαυμάσιόν ἐστι καὶ ὑπερφυές, ἀλλ᾿ οὐκ ἐπὶ τῷ ἡμετέρῳ βουλήματι ἢ δυνάμει ἡ δαπάνη κεῖται τοῦ σώματος καὶ ἡ πρὸς τὸν θειότερον τόπον μετάστασις · μόνης δὲ τῆς θείας ἤρτηται τὸ πρᾶγμα τῆς χάριτος τῆς τῷ ἀπορρήτῳ πυρὶ τὴν ὕλην ἐκδαπανώσης τοῦ σώματος καὶ τὴν ἐμβριθῆ καὶ γεώδη φύσιν ὀχήματι πυρίνῳ μετεωριζούσης εἰς οὐρανόν.

神託は、「質料の残滓」と呼ぶその身体さえも、私たちが神の火で焼き払うよう、あるいはやせ細らせてエーテルほどにまで軽量化するよう、あるいは神により、非質料的・非身体的な場所へ、身体的ではあってもエーテルでできた世界へ、天空へと引き上げてもらうよう忠告を与えている。そこはテスビテ人のエリアがたどり着いた場所であり、それ以前にはエノクが、現世の生からより神的な領域へと移り住んだ場所だ。彼は「質料の残滓」すなわちおのれの身体をも「深淵に」残しはしなかった。深淵とは、上に述べたように、地上の場所のことである。そうした考えがたとえ驚くべきもの、超自然的なものだとしても、身体の焼尽やより神的な場所への移動は、私たちの意志や力にもとづくのではない。そうした行いは神の恩寵にのみに依存するのであり、それは、えもいわれぬ火で身体の物質を焼き払い、重く土のような本性を、炎のような乗り物で天空にまで運び上げるのである。