技術のホーリズムへ?

フランスのサルコジ大統領は3月末の来日会見で、「原発は地震は耐えたが津波にやられた。津波が問題だったのだ」と述べていた。おそらく日本側からの説明がそういうものだったのだろう。けれども、先日7日の夜の大きな余震後、この余震の影響を受けた福島以外の原発が軒並み綱渡り的な状況になったことで、問題が津波だったとは断定できなくなった。少なくとも疑問符が付いた……そう、原発はそもそも地震に耐えたのかという問いが浮上した。

原発には耐震処理がなされているという話は以前からあったように思う。問題なのは「耐震」が何を意味するかだ。なるほど、確かに建物自体が崩壊するような事態はなかった。単に家屋ならばそれで「耐震」ということで問題はないだろう。けれども、原発などなんらかの生産設備は、そもそも地震によって機能が損なわれてしまわないことを「耐震」と呼んでしかるべきなのではないか、と思われる。電源が簡単に落ちてしまうような設備を「耐震」とは言えない。そういう意味での「耐震」を基準にするなら、現時点での原発は必ずしも合格点とは言えない。構造体としてのみ捉えてしまい、機能面を加味した全体的な生産設備(それもクリティカルな)として「耐震」を考えていなかった可能性は否定できない。少し前のポストとも重なるけれど、構造体として捉えるとは、いわば一面(一点)だけをピックアップして考慮するということであり、生産設備を全体として捉えることができていないということ。リスク管理としては、もはやそうした点的な対応では不十分で、全体的・包括的な捉え方が求められる……。今の場合でいえば、「電源込み」で耐震設計をするとか、電源の取り込み口を複数化しておくとか、システム全体で「耐震」ないし「免震」を実現する……。

ではなぜ、そうした全体的思考はなかなか育まれないのか。この問題に関連についてはアンドリュー・フィーンバーグ『技術への問い』(直江清隆訳、岩波書店)が様々に示唆的だ。目的に奉仕するという意味で技術は「中立」だとする通念に対して、著者はそれが実は「自分たちの自律性を守ろうとする専門家や組織の側の一般的な防衛反応」(p.130)にすぎないと喝破する。技術が「中立」に見えてしまうのは、当該技術をめぐる以前の利害関心がデザインに内在化していくように、社会・組織と技術の体制が変化していくからだと指摘している(同)。その特殊な一例としてあげられているのが、まさに原子力の事例だ。アメリカでは、大衆が抱く不安・反発によって、原発が1960年代のデザインで80年代ごろまで固定されたままという事態を引き起こしたという。しかしこの場合、非合理だったのは大衆の側でもなければ、事業を推進した側でもなかった、と著者はいう。両者の再帰的な関係がそういう膠着状態を招いたというのだ。環境運動は技術の副作用を減少させようとするが、往々にして「技術プロセスから製品や人に、事前の防止から事後的な後始末に、批判の目をそらせようとする傾向が見られる」(p.137)という(なぜそうなるのかは触れていないようだが……)。一方の運営する側はこれを受けて「トレードオフを含むコストとして認識」(この技術を使わないと、その先に待ち構えているのは貧困だぞ、と)し、相手を追い詰めていく。

著者によれば、このトレードオフモデルは一種の偏向(バイアス)であり、そこで突きつけられるジレンマ(「環境的に健全な技術VS繁栄」など)の統合こそが重要だという。それが政治的なイデオロギーの対立に見えるというのは本質的問題ではなく、技術の本質からすると(シモンドンが引き合いに出されているが)、そもそも技術的発展の目標とはそうしたジレンマを避けることにあるはず、と。その上で、こうしたトレードオフではない別の価値観へのシフトを模索することが求められる、ということを著者は論じている。一例として、アメリカ政府が汽船のボイラーに課した安全規則が挙げられている。それは「人間の生命の価値と政府の責任についての非経済的な決定」(p.143)だったという。話を目下の問題に戻すならば、おそらくはもう一度、上の技術プロセスと事前の防止の方へ立ち戻ることが肝心だということになるだろう。この著者が示すようなバイアスを生む土壌すらをも見据えて……。それは当該技術を全体(関連技術や組織論も含めたまさにマクロな体制)から捉え直すというスタンスと切り離すことはできないはずだ。