久々に天使の意思疎通論を読む。ハーム・ゴリス「天使的博士と天使的発話」という論考(Harm Goris, ‘The Angelic Doctor and Angelic Speech: The Development of Thomas Aquinas’s Thought on How Angels Communicate’, Medieval Philosophy and Theology 11 (2003))(→PDFはこちら)。13世紀半ばにもてはやされた「天使はどんな言葉を交わすか」という問題をトマス・アクィナスはどう考えていたかについて、その経年別の思想的変遷を中心に手堅くまとめたもので、とても参考になった。ここで考えられている天使のコミュニケーションとは天使同士の意思疎通の場合。コリント書13.1の「もし私が人間や天使の言葉で話しても……」というのが、聖書での「天使の言語」に関する唯一の出典なのだそうだけれど、これをめぐって、すでにヘイルズのアレクサンダーの『神学大全』、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥス・マグヌスなどが議論していたという。彼らはいずれも、天使の言語を人間の言語とパラレルなものと見なしていて、知的スペキエス(像、形象)のあり方として、理解(概念化)、獲得(定着)、伝える意志および表出といった段階があると考えていた(これはアレクサンダー、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥスでそれぞれ用語が異なる)。トマスも初期には、アウグスティヌスを踏まえて心的概念、内的言語、知解可能な徴という区別(もしくは段階)を考えていた。アウグスティヌスを踏まえてとはつまり、思惟というのは内的言語だという考え方を前面に出すということ。しかしトマスはやがて、今度はアリストテレス的な可能的・常態的(獲得された)・現勢的知識という区別を適用して、天使における知性内の知解対象のあり方を、常態(獲得)、当人にとって現実態(理解)、他者にとって現実態(表出)という三区分とするようになる。理解(概念化)と内的言語を切り離し、三つめの外的な表出においてのみ言語が関与するという立場に転じたらしい。
けれどもこれで終わらず、トマスはアウグスティヌスとアリストテレスの摺り合わせへと進んでいき、やがて二つめの「当人にとって現実態」という段階が、アウグスティヌス的な内的言語で説明されることになる。現実態としての理解が内的言語とイコールだと見なされるというのだ。で、さらにその思想の「成熟期」においては、いつしか再びアウグスティヌスへと舞い戻っていくという。外的な表出すら区分として薄らいでいき、天使においては、伝える意志が向かえばそれで他の天使に概念が伝わるという考え方になり、ここへきて、人間と天使のコミュニケーションはパラレルなものとは捉えられなくなる。もとより言葉の徴とは感覚的・物体的なものである(だから非物体的な天使には必要ない)というアウグスティヌス主義の伝統へと、すっかり回帰していくというのだ(もっとも、多少の留保はとどめているらしいのだが)。なるほど、このあたり、タンピエの糾弾などが絡んでいそうで、なにやら反動的保守化という感じも……。うーむ、ま、性急にそういう括りにしてしまうのはよしておこう。とはいえ、とても興味深い変遷の過程だ。