ちょっとこのところ個人的に、取り寄せる仏語書籍が全般に不調……というか、要するに巡り合わせが今一つという感じなのだけれど、こういう時期というのはたまにある。こういう場合には、むしろ多少とも引っかかりのあるものが脱するきっかけになったりする(経験上)。というわけで、そういう事例として「キリスト教の脱構築第2巻」という副題のついたJ.L.ナンシーの新作『崇拝』(Jean-Luc Nancy, “L’Adoration (Déconstruction du christianisme, 2)”, Galilée, 2010)を挙げておこう。まあ、一種の詩(=思想書)だと思って読めばそれなりに楽しい(苦笑)。ただ、生産性のある議論なのかどうかは疑問もないわけではないが……。1巻目が出たのが2005年だったので、ちょっと間が開いているのだから何か新しい知見はあるのかと期待していていたものの、なにやら前回示された議論(キリスト教それ自体に脱構築の運動が内包されていて、結局西欧の歴史はその自己展開のように読むことができ、その運動の行き着く先は、理性が理性そのものを越えていくような次元にまで至るのではないか、そのために「囲いを壊す」必要がある云々)がひたすら反復されている印象だ。このブログの前身のブログで前作を取り上げた際、ある種の宗教的信仰に陥らない・横滑りしない信(心)というものがはたしてありうるのか、みたいな感想を書いたのだけれど(笑)。どうやらナンシーはそういう信のあり方を、この「崇拝」という語に託しているようだ。空虚(神はもはや不在なので)に向けられたそれは、思惟そのものでもある、と著者はいう。でも、やはり全体的に「それだけなの?」みたいなどこか満たされない読後感が残ってしまう。キリスト教を脱するキリスト教的な知が、純粋な思惟となることは、一体何によって担保されるのかとか、宗教的文脈から離れる「崇拝」は、それでもなお一種の神秘主義のような、否定神学のようなものにとどまらないのかとか、いろいろな疑問を呼び寄せてしまう……(?)。著者にしてみれば、いくらでも言い足りなさが残るような議論なのだろうが、読者にしてみれば、いくらでも読み足りなさが残る議論かもしれない。