パリ市長時代の架空雇用事件でどうやら免訴確定となったフランスのシラク前大統領だが、それ以前に、本人は健康上の理由で裁判に出られないと弁護人が訴えた際、理由として挙げられたのが病態失認(anosognosie、anosognosia)という病名だった。早い話が一種の認知症ということだろうけれど、この聞き慣れない病名を出してきたところに、なにやらその威信とかへの微妙な配慮などが感じられたり……。この病名、ラマチャンドラン&ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(山下篤子訳、角川文庫)を読んでいたら、いきなり出てきた(第7章)。必ずしも認知症がらみだけではないらしく、そこで挙げられているのは、たとえば卒中などで半身麻痺になっているというのに、それを否認するという事例の数々。医者が麻痺したほうの手で鼻に触ってみてくださいと言うと、実際には動いていないのに、「触っている」と平然と答えたりするのだそうだ。このシンドロームは1902年にフランスの神経科医バビンスキーという人物が初めて臨床的に観察したものだという。以来、その症状の説明として様々な見解が出されているといい(原書刊行時だろうから1998年の時点で)、「何もわかっていない」ものの、著者によればその研究は重要だ、とされている。で、同書では失認そのものではなく、患者が平然とやってのける「否認」(およびそれに付随する「作り話」)にポイントを絞って話を進めている。
著者も述べているけれど、この否認の問題は、突き詰めていくと「自己とは何か」「何が意識体験の統合をもたらしているか」といった大きな問題を導くことになる。そもそも否認や作り話を当の本人はどの程度信じているのか。患者に対する実験(一種の誘導尋問的なものだが)からは次のような仮説が示されるらしい。つまり否認する主体には、あたかも障害を認識している主体が脳の中にいるのに、意識がそれにアクセスできないような状況があるのではないか……。うーん、認知症の老親が家にいる身としては、このあたりは実に面白い。同書に描かれているような極端なものではないにしろ、すこぶる自己防衛的な否認を目の当たりにすることがあるからだ(たとえば、どういう意味があるのかわからないけれど、老親はビニール袋や輪ゴムといったグッズを、台所を探っては夜中に密かに「収集」しているらしいのだが(このことも十分興味深いのだけれど)、そのことをいくら問いただしても、「自分はやっていない」と否認し、挙げ句の果てには「誰かが家にいるんじゃないの」みたいな作り話に逃げようとしたりする。どこまで本気か不明……)。
著者はここで、患者の否認の様態がフロイトの記述した様々な自己欺瞞のリスト(否認、抑圧、反動形成、合理化、ユーモア)を、心理的防衛の存在・役割を確信させるものとして再評価している。ま、病態失認の患者の事例は、誰もが多かれ少なかれ用いている自己防衛の機能が、かなり極端な形で発現したものということになるのだろうけれど、こうしてみると認知症患者の奇妙なディスクールや行動も、あるいは一般的な主体構築のなんらかの要素を表している「徴候」なのかもしれない、と改めて思う。このあたり、身近に具体例もあることだし(苦笑)少し考えてみたいところだ。