「世界の永続について(反プロクロス)」第6章

9月くらいから、すごく遅々たるペースながらフィロポノス(「ピロポノス」表記改め)の『世界の永続について』校注&希独対訳本の第3巻(Johannes Philoponos, De Aeternitate Mundi,Dritter Teilband, Übersetzung von Clemens Scholten, Brepols, 2011)を見ている。ブレポルス刊の同書は全5巻で、すでに2巻までは2009年に出ていた。3巻目以降は今年前半に一気に出た模様。この第3巻は原典の6章から8章までを収録している。『世界の永続について』と題されるものは、副題で反プロクロスと反アリストテレスの二つがあるけれども、こちら反プロクロスのほう。原典の5章までは諸々の議論における定義などに文句を付けている感じが強いけれど(笑)、この6章あたりからはいよいよ本格的なアンチ永続議論が展開する印象。というわけで、少しこのテキストについても折に触れてまとめメモを記しておくことにしようかと思ったりしている。

6章は主に『ティマイオス』をめぐるプロクロスの解釈を批判する。『ティマオイス』ではデミウルゴスが世界を創造したことになっているわけだけれど、プロクロスはここで、デミウルゴスが結合したもの(悪しきものを繫いで善きものにする)以外は解かれることはなく、世界はしたがってもとより解体することはなく不滅だとし、不滅ならばイコール生成を経たものではない、といった話を展開する。で、これに対しフィロポノスは、そうした解釈をとことん斥けていく。たとえば、デミウルゴスが結合を解けるのなら悪を許すことになり、するとそれはその善性に反することになってしまう、それよりは善性のゆえに解体することもあるとするほうが理に適っているとか、あるいは、もともとプラトンの教義では世界は生成されたものであり、したがって起源をもつとされいて、プロクロスの解釈とは反するとか、世界が形相と質料から構成されている以上、それは解体もありうるとか、すべて原因をもつものは時間のもとに置かれなくてはならず、一方でデミウルゴスの意志ゆえに、生成するも不滅というものも存在しうるとか……。うーむ、至極まっとうな議論ですな、これらは(笑)。

このテキスト、反駁の過程でいろいろな議論が登場し、ドクソグラフィ的な面白さもある。たとえば質料形相論と存在の付与という絡みで取り上げているポルフュリオスを高く評価していたり、プラトンを歪曲する解釈とは対照的にまっとうな解釈の例としてアフロディシアスのアレクサンドロスを取り上げていたりする。詳しく見てまとめていけばこれも面白そうなのだが、今はとりあえず先に進むことにしよう(苦笑)。

ヘンリクスのesse essentiae再び(パウルス本その2)

再びパウルス本(Jean Paulus, Henri de Gand, essai sur les tendances de sa métaphysique, Vrin, 1938)から、とりあえず二章まで。「本質的存在(esse essentiae)」を神の知性にある本質の状態とするリチャード・クロスの解釈だけれど、パウルスはすでにしてそのことを押さえた上で、人間知性におけるその位置づけを改めて考えているようだ。まず一章の末尾部分では、認識論的な議論を検討する中で、神の知性の話が出てくる。ヘンリクスの唱える内在論(認識というものは内的な、概念的内容の認識から始まるとするもの)では、人間の知性は神の知性とパラレル(類比的)だとされる。神の知性がまずはおのれ自身を思惟する(発出論的に?)のと同様に、人間知性もまずは神そのものの概念をおぼろげに把握するところから始める、と。で、その概念というのは当然ながら「存在」概念ということになり、ここから話は一気に形而上学のほうへと移っていく(二章)。

神の創造と「存在」はどういう関係を取り結ぶのか。この問題に、ヘンリクスはアヴィセンナから継承した「本質的存在」(アヴィセンナは、本質そのものは外界での実在や概念としての理解といった諸条件から独立していると考えていた)をもって応答する。本質的存在をともなう絶対的本質(essentia absoluta:本質そのもの)を、神の知性の中に可能性として存在する知解対象であるとし、それが創造行為(神の意志による)によって実在にいたらしめられたものが現実の事物だと考えるわけだ。で、人間知性の場合もそのパラレルな関係から、まずは本質を直観的に把握するとされ、その場合の本質というのは上の絶対的本質の特徴をもっていて、ゆえに本質的存在をも備えている、と……。

パウルスはこのあたりのことを丁寧に細かく論述していくわけだけれど、その過程でいろいろ興味深い指摘がなされている。たとえばヘンリクスはアヴィセンナからもとの着想を受け継いでいるとはいえ、いわゆる発出論を削除しているとか、ある意味でスコトゥスはヘンリクス以上に新プラトン主義的だとか、あるいはヘンリクスのこうした考え方がアルベルトゥス・マグヌスの新プラトン主義的な議論に類似しているとか。このアルベルトゥスとの関連で一つ気になるのは、アヴィセンナ絡みの話はともかく、アヴェロエスの影響はどうなのか、という点。メルマガでもちょっと前に見たけれど、アヴェロエスはフランシスコ会派の思想家らにも、明示されないまでも影響を与えているような印象。とするなら、ヘンリクスもまたそれらの思想家に関連しているわけなのだから、それなりに影響を被っているのではと考えるのが順当な気がする。このあたり、要検討だ。

↓1271年の写本『真理の微細さ』から、イブン・シーナーの肖像。

13世紀のアラビア医学世界……

哲学についてもそうだけれど、医学についてもイブン・シーナー以降、アラブ世界は退潮傾向を強めていったというのはある種の「定説」だけれど、こうした衰退史観(笑)についても近年、見直しの動きがいろいろなところから出てきているらしい。で、そんな文脈の一端に位置する論考を読んでみた。ピーター・ジューセ&ピーター・ポーマン「アヴィセンナ時代以降のイラクとシリアにおける凋落と衰退?−−神話と歴史の狭間のアブド・アル・ラティフ・アル・バグダディ」(N. Peter Joosse & Peter E. Pormann, Decline and Decadence in Iraq and Syria after the Age of Avicenna?:’Abd al-Laṭīf al-Baghdādī (1162-1231) between Myth and History, Bulletin of the History of Medicine, Vol 84, No. 1, 2010 pp.1-29)というもの。論文の主人公となるアブド・アル・ラティフは、バグダッド生まれで後にシリアに渡った13世紀の医学者なんだそうで、ここでは主に著作「二つの助言の書」の内容を紹介している。これがなかなか面白そうで、とりわけガレノス(アラブ世界にはフナインの翻訳によって伝えられた)を批判的に継承する立場を示し、当時権威とされていたイブン・シーナーの『医学典範』よりも、古代の知見への復帰を唱えていたという。おお、これって一種のルネサンス精神(?)。いずれにせよ、そんなわけでアブド・アル・ラティフは、当時の医師たちをガレノス流に三つのセクトに分け(合理(=教条)主義、経験主義、方法主義)、それぞれに批判を加えているらしい。で、その過程で、下手な合理主義者よりは巷の経験主義者のほうがマシだとして、下層の医師や、アラブ世界にも少なからず存在したらしい女性のヒーラーたちを称揚しているという。

論文の末尾にあるのだけれど、上の衰退史観の形成には、アラビア語の医学文献のラテン語への翻訳が大きな影響を与えているという。イブン・シーナーとイブン・ルシュドの後、西欧の側は文献の翻訳にあまり留意しなくなったわけだけれど、そのことが「見るべきものがないから」とされてしまったというわけだ。で、ようやく近年、哲学や天文学などの各領域から、この「西欧中心史観」を批判する動きが出てきたのだという。うん、そのあたり、確かに大いに期待したいところだ。

神をも騙す……読者をも?(笑)

このところ諸般の事情で、なかなかまとまった読書時間が取れないのだけれど(苦笑)、とりあえず空き時間をなんとか工面したりして、各書をちびちびと眺めている。で、そんな中、結構ドライブ感をもって読めた一冊が宮下志朗『神をも騙す−−中世・ルネサンスの笑いと嘲笑文学』(岩波書店、2011)。これ、邦語では紹介されていない珍しい版でもって、中世の様々な説話文学を読んでいくという趣向。それだけでもなんとも興味深い。まず取り上げられる「トリスタン」物語は、なんと13世紀のベルールの写本(断片)。タイトルの「神をも騙す」は、そのイズーの機転・狡知から取られているのだけれど、ほとんどこれは笑話(笑)。同著者も指摘するように、そこでのトリスタンとイズーはワーグナーやベディエのものとはまったく違う。続いて紹介されるのは『デカメロン』のカランドリーノ説話。さらにそれとの関連でヴィヨンの「恩赦嘆願状」その他の作品、さらにそのヴィヨンが主人公として描かれる『無銭飽食集成』、さらにはそれとも関連する『ティル・オイレンシュピーゲル』。そこではフランス語版やフラマン語版などとの文献学的比較なども行われていて、一段と興味をかきたてる。また、著者自身の語り口にもまたしゃれっ気があったりして(学問としての文学の狭量を皮肉ったりとか)それもまた楽しい読み物となっている。

解剖を支えたものとは

これまたちょっと古く短いながら興味深い論考。イネス・ヴィオレ・オニール「インノケンティウス三世と解剖学の進展」(Ynez Violé O’Neill, Innocent III and the evolution of anatomy, Medical History, 20(4) 1976 pp.429-433)。西欧初の死体解剖の記録は、フランシスコ会の年代記作家フラ・サリンベーネが記したものとされてきた。1286年に北イタリアを襲った疫病(雌鶏と人間が感染?)の原因究明のため、遺体の解剖が行われたという話なのだけれど、同論文では、この病理学的な目的の解剖よりも以前に、実は別のモチベーションで死体解剖が行われていた実例があることを紹介している。それが、僧侶が関わった事件(事故)でその免責の証拠を探るために行われた解剖の事例だ。論文では、マロレオーネの修道院の司祭が泥棒に加えた一撃が致命傷でなかったことを証すために行われた解剖や、シグエンサの司教がミサ中に暴れた教区民を打ち付けたことが、その後の死亡原因ではなかったことを証すために行われた事例が紹介されている。解剖による検証を求めたのはイノケンティウス三世で、その結果をもとに教皇が発した教令により、両者は免責されているという(1209年)。かくして、教皇周辺の教会法学者はその頃までに、医学的な検証を重視するようになったいたというわけだ。で、こうした動きは教会法から徐々に市民法にも浸透していく。その延長線上に、ボローニャ(法学が盛んだった都市だ)で1302年に行われた、記録に残る初の公開解剖が位置づけられるのだという。解剖が広まっていく背景の一つには、こうした法的な動機付けがあったというのがこの論考の主眼。なるほどねえ。

↓wikipedia(en)より、16世紀のレアルド・コロンボ『解剖学』(1559)15巻の挿絵