認知症の虚構世界

夏に緊急復刊という形で出た、青土社の『イマーゴ』(斉藤環特集:東日本大震災と<こころ>のゆくえ)をゆっくり読んでいる。この、ガチガチの専門誌と一般誌のあいだという感じが、失われてしまって久しい気がして妙に懐かしい。ま、それはともかく。この中で個人的にとりわけ印象的だったのが、三好春樹「震災と認知症」という一文。認知症と称されるものが類型的にPTSDの症状に似ているといい、そこから認知症が「老いを生きるという日常的な体験を原因とするPTSD」なのではないかという仮説に言及している。うーむ、もちろん安易なアナロジーでは困るけれども、なにやらこれは示唆的。

「多くの老人たちは、治癒しないまま、この現実とは別のもうひとつの世界を創りあげる」(p.88)と同著者は記している。それはストレスやトラウマを遮断するシェルターのようなシステムなのだという。この場合の治癒とは、なんらかの社会的な行動ができるところまで症状を和らげることを言っているようだ。で、うちにいる認知症の老母はというと、確かにそういう徴候を示し、日増しにそれは深まっているようにも見える。相当崩れてしまっている記憶をもとに虚構を練り上げる一方、その認識がおりなすストーリーの一貫性だけは保とうとし、周りの人々の現実的な対応にほとんど嘘(?)でもって応答しようとする。たとえば、老母の頭の中では震災(というかその後の津波)が起きたのはつい先日(11月?)で、その前に予知夢のようなものを見ていたのだという(けれどもその夢の話は大昔に聞いた気もするのだが)。また、自分の生家は20年以上前に取り壊されているのに、その津波によってなくなったという話にすり替わっている。見方によってはこれは、記憶に残っている断片をつなぎ合わせて新しい主体構築をしようとしている……のだろうか。それにしても難しいのはこちら側の対応だ。その新しい世界をこちらが拒否すれば、それが傷になってさらにその世界に埋没していくのかもしれないが、それを仮に受け入れても、いわば図にのって、虚構世界をさらに拡大させていくという感じでもある。「傷つけられることはない。だがそれは共感することもない世界である。その世界は少しずつ荒廃せざるをえない」(同)と上の論考にも記されているが、そのきわめて異質な虚構世界をそのまま引き受けるというのは、身内であってみればよりいっそう難しい。

中世の目録作成

これまた短い論文ながら興味深いのが、ベス・M・ラッセル「秘められた知恵と未見の宝物:中世図書館の目録作成を再訪する」という論考(Beth M. Russell, Hidden Wisdom and Unseen Treasure: Revisiting Cataloging in Medieval Libraries, Cataloging and Classification Quarterly, Vol 26, no.3, 1998)。図書館の目録作成が時代を下るほど発展してきたという線的な歴史観を批判して、中世の図書館にはそれなりの工夫と知恵が見られたことを改めて紹介している。紹介されている事例は、書物の物理的な形状で分類するとか、必要に応じて配置場所を変えておくといった工夫、書物にアルファベット記号を割り振った例、本棚の具体的場所を示した例、最初の単語を記録しておくといった例(これは結構頻度が高そうな印象だ)、自由七科の順番やその他一般的な知識の分類スキームに則った順番に並べる方法、近代を思わせるようなアルファベット順の配置、さらにはテーマ別の配置などなど……。複数の作品を一つに綴じてあるような書物の場合の分類方法は、とりわけ問題になったという。こうして見ると、はるか後代の分類で問題になっていたことは、なるほど中世においては体系的アプローチではないにせよ、やはり同じように問題になっていたらしいことが窺える。中世の人々はそこに個別・特殊なやり方で対応していた。で、そうした個別の対応は、現代においても面倒な目録作成の、もしかしたら新たな着想源となりうるかもしれない……これが著者の結論なのだけれど、これって、中世を探求するモチベーションとしてなかなか説得力があるなあ、と(笑)。

↓wikipedia(en)より、ボエティウス『哲学の慰め』仏訳版第一巻の挿絵に描かれた図書館の内部。

ヘンリクスのesse essentiae(パウルス本その1)

1930年代の古い研究書だけれど、ジャン・パウルス『ゲントのヘンリクス−−その形而上学の諸傾向に関する試論』(Jean Paulus, Henri de Gand – Essai sur les tendances de sa métaphysique, Vrin, 1938)を読み始めたところ。パウルスはベルギーの研究者で、指導に当たったらしいエティエンヌ・ジルソンが冒頭の序を記している。ヘンリクスの思想体系をまとめようとしている著作で、まだ序論と第一章の途中まで読んでみただけだけれど、どこかジルソンのスコトゥス論に似た空気を感じさせる(笑)。

ヘンリクスの議論は基本的に、トマス的な捨象の認識論(つまりはアリストテレス的ということだが)にアウグスティヌス的な照明説を重ね合わせたものとされるのだけれど、この簡素な言い方では、実際にどのようにしてそれらの重ね合わせが可能になっているのかがわからない。なにしろアリストテレスの外部世界からの帰納論と、アウグスティヌス的な内在論とは、もともと相反するものでしかないからだ。ヘンリクスはいかに両者を和解させるのか。これが同書の出発点となる問い。それはあるいは、感覚の受理と内在的な知性とがどう接合させるかという問題にもなる。で、著者はまず、ヘンリクスの認識論へと踏み込んでいく。

最初のポイントとなるのは、アリストテレスの『分析論後書』で示される認識論(名目的定義をもとに、感覚を通じて対象の実在を把握するという流れ)に、ヘンリクスが加えているという変更。アリストテレスは、厳密には認識とは外部に実在する事物を把握するところから始まると考えるのに対して、ヘンリクスは概念的内容(名としての定義)の把握から始まると考えており、外部に実在するかどうかはその後で検証されるのだとする。ではどう検証するのか。ヘンリクスはこう考える。知性は、名目的定義の内容に、知性がもとから持っている存在の概念、事物の実在概念とを対峙させ、それが一致すれば対象の実在が確定する、と。でもこれでは、名目的定義の内容(すなわち本質)に真偽を分ける何かがなくてはならないことになる。で、ここで登場するのが、例の、実在となる以前に本質がすでにしてもっている「存在」、いわゆる「本質的存在(esse essentiae)」ということになる。

前に見たリチャード・クロスの論文では、ヘンリクスの「本質的存在(esse essentiae)」を、従来の外界的事象と精神的事象の中間物だと解釈するのは間違いで、むしろそれは神の知性の中にある状態での存在の意ではないかと主張していた。この点についても改めて考えてみたいところだけれど、これはまた後で。いずれにせよパウルスのこの本では、それは存在論プロパーではなく認識論から提出された考え方であることが強調されている。また、これがデカルトの「対象的存在(esse objectivum)」の先取りであるとして、プラトン、アヴィセンナ、ヘンリクス、デカルトという系譜を指摘したりもしている。同書のこの話、感覚がどう関わってくるのかとか、それがどう対象の実在の把握に結びつくのかとか、当たり前だけれどまだまだ先は長い……。