久々に魂論がらみの哲学史的論考を読む。マーティン・トゥイーデイル「知覚は形象の非物質的受容だとする中世の理論の起源」(Martin M. Tweedale, Origins of the Medieval Theory That Sensation Is an Immaterial Reception of a Form, Philosophical Topics, vol.20, 1992)(PDFはこちら)というもの。これはなかなか刺激的な論文。トマス・アクィナスによると知覚とは、質料を伴わない形相を感覚器官を通じて魂が受け取ることだとされる。というか、少なくとも一般にはそう思われているけれど、実はトマスのこの論には曖昧な部分があって、魂が形相を受け取ることを知覚とする一方で、感覚器官が受け取る感覚的な形相が「非物質的に」存在することも否定してはいない。『神学大全』(問14、78、82)では、形相の認識(魂の働き)とその形相が非物質的に存在することとはイコールとされているのだけれど、『霊魂論註解』では、感覚的形相は感覚器官にも媒質にも存在できるとされているという(これはシェルドン・コーエンの議論がベースだという)。この「矛盾」について、実はそれが、トマスの前から綿々と営まれてきた逍遙学派のアリストテレス解釈の伝統に由来するものなのではないか、というのがこの論考の主旨となる。そんなわけで論文著者は、トマスから順に註解の伝統を遡っていこうとする。
ベルナール・ジョリ『デカルトと化学』(Bernard Joly, Descartes et la chimie, Vrin, 2011)を一通り読んでみた。デカルトが化学をあまり正面切って扱っていないことはよく知られている。17世紀当時、化学は錬金術とかなりオーバーラップしているわけだけれど、それらをデカルトは世迷い事の類として片づけていたことは比較的よく知られている。ところが一方で、デカルトは化学の実験がもたらす結果について少なからぬ関心を示していたという。書簡などからそのことがわかるのだそうだ。挫折こそしたもののみずから実験に手を染めようともしていたという。そんなわけで同書は、デカルトの化学に対する両義的な姿勢について、主に主著の『哲学原理』を丹念に読みつつ検証していく。丁寧な著作ではあると思うのだけれど、なんというか、そこから導かれる結論はそれほど意外なものではない。粒子論を考え、それら粒子の運動として諸現象を考えていたデカルトは、たとえば火をそれ自体元素とは認めず、物質のある状態だとするなど、確かにそれまでのアリストテレス的なものの見方からの大きな乖離を体現してはいた。当時「流行っていた」化学に対しては、説明としての学知の体をなしていない、虚構にすぎないなどとして一蹴し、化学が扱う対象(塩酸とアルカリ酸の反応など)をも粒子論・機械論的還元を通してみずからの体系に位置づけようとしていた。化学はデカルトにとって、自説の事例を汲み取るための「実験の貯蔵場所」でしかなかったという。
面白いのは、そうした化学への批判がデカルト自身の体系にもブーメランのように舞い戻ってくるというあたりの話。デカルトは自然学的な諸現象の説明(『哲学原理』の三巻以降)に際して、様々な仮説を積み重ねていくわけだけれど、その根底が虚構であることを自覚しているといい、化学を虚構扱いするその批判は本人の体系にも向けられうるという危うさを孕んでいる、というわけだ。ライプニッツや少し遅れた時代のヴォルテールなどがそのあたりを突いているという。著者が指摘しているように、ヤン・バプティスト・ウェーニクスによるデカルトの肖像画で、デカルトが持っている書に「mundus est fabula(世界は寓話だ)」と書かれているのは示唆的だ。
発生論のほうでもラディカルらしいブラシウスだけれど、魂の問題についてもやはりそうらしい。基本的なリファレンス本の一つ、シュミット&スキナー編『ケンブリッジ・ルネサンス哲学史』(Schmitt & Skinner, The Cambridge History of Renaissance Philosophy, Cambridge University Press, 1988)の「知的霊魂」の章(15章)には、ブラシウスの「物質論的」霊魂論が紹介されている。知性は非物質的かつ身体から独立して存在しているのか、それとも身体との関係性においてのみ知性は存在しているのか(その場合、知性は身体の形相とされる)を決めるのは、身体から独立した形での魂の作用(操作)があるかどうかにかかっている。ところがそうした作用は観察ができない。そのため知解のプロセスを知覚とのアナロジーで考えるほかない。その場合、魂には対象が必要となるけれども、その対象にはなんらかの距離・外延がなくてはならない。そのためには質料が必須ということになる。とするなら、魂にとっての対象は物質的な対象(物質と結びついた形相)だということになる。外的対象のほか内的対象(想起されるものなど)の場合でも、知性が抱く概念はもともと質料のうちに表されるのでなくてはならない。外的世界での質料と形相の結びつきとパラレルな形で、知解もまた質料(この場合は身体)と形相が結びつく「自然」な作用にほかならないのだ、と。ここまで、ちょっと古い質料形相論に連なる感じだけれれど、この後、ブラシウスは一気にラディカルな方へと走り出す。認識対象と認識主体は同種でなくてはならないとされていたことから、ブラシウスは、知的霊魂もまた、質料(この場合は身体か)の潜在性から引き出される特殊な形相にすぎず、身体が滅べば消えてなくなると推論するのだ(!)。当然ながらこれは当時の哲学的な考え方にも、キリスト教の教義にも反する立場。ブラシウスは弁明を余儀なくされ、後に自説を引っ込めるらしい。でもその考え方、ヴェネツィアのパウルス(こちらもそのアヴェロエス主義的な考え方が面白そうだが)などがオッカム流の唯名論的に普遍を考え、外的世界の事物に根ざしてなどいないとするのに対し、改めて実在論を導いているような話になっていて興味深い。