ガリレオ初期の「共有知識」

PDFで公開されている論集『ガリレオと当時の共有知識』(Galileo and the Shared Knowledge of his time, Max-Planck-Institut für Wissenschaftsgeschichte, 2002)(PDFはこちら)から、ヨヒェン・ビュットナー他「不可視の巨人を追う:ガリレオの未刊行論文に見る共有知識」(Jochen Büttner et al. Traces of an Invisible Giant: Shared Knowledge in Galileo’s Unpublished Treatises)をちらちらと眺める。表題の通り、ガリレオの残した未刊行論文から、従来のガリレオ像とは違った見方を、とりわけ当時一般的に共有されていた学知という面から示そうというもの。個人的には、少し前にデカルト論に触れた際にも記しておいたように、研究対象の同時代的な学知的背景の再構築の必要性を改めて感じているせいもあって、とても参考になった。初期の1586年の静力学平衡についての論文や、1587年の重心に関する論文などでは、アルキメデスに心酔している様子が窺えるのだといい、1589年のピサ大学での教授就任以降は、アリストテレスの自然学を盛んに研究しまた普及させようとしているという(1590年ごろの『より古い時代の運動論について』など)。アリストテレスの自然学をめぐる伝統は、数々の修正を経つつ強固に生き残っていて、ガリレオも最初からそれに異を唱えていたわけではなかったことがわかるのだという。若き日のガリレオは、アリストテレスの運動理論とアルキメデスの浮力理論を結びつけようとさえしていたらしい。また、コペルニクスの議論に対するガリレオのスタンスも、時代とともにアンチから支持派へと移り変わっていくのが見てとれるという。コペルニクス思想のガリレオによる擁護は、旧来のドグマとの全面戦争として周到に準備されていたものでも、あるいは新体系への転向といったものでもなく、時代的に共有されていた当時の学知との不可避の出会いから生じたもので、それは同時代人の多くが体験した、それぞれの個別的コンテキストと支配的な世界観を支える天文学的知識との両方から決定づけられた、反応・反動だったのではないか、というわけだ。同論考は確かに、ガリレオの未刊行論文に具体的かつ細かな検討を加えているわけではなく、大まかな図式を取り出すことに重点を置いている。その意味では精度はやや粗く、本来ならむしろ前者のようなものが読みたいところなのだけれど、少なくとも考察のフレームワークを示している点で、同論考が取り組む後者のような姿勢も悪くはない気がしている。「共有知識」はいろいろな研究対象において必要となるキーだ。

ユストゥス・シュステルマンスによるガリレオの肖像(1636)
ユストゥス・シュステルマンスによるガリレオの肖像(1636)

イソノミア問題

連休後半はつらつらと柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店、2012)を読んでいた。前史を抑圧するかのごとくプラトン(が描くソクラテス)をもって正史の端緒とする「哲学史」を、あえてアテネ中心史観だというふうに喝破し(そういう言い方ではないが)、それ以前のイオニアにおける自然哲学を再評価しようというわけなのだけれど、その際、自然哲学の成り立ちにおいてイオニアの社会状況の反映を読み込んで、いわば「哲学の社会学史」といった視点から論じているところがなかなかユニークではある。そこでイオニア社会の特徴として提示されるのが、「イソノミア」(同書では無支配と訳されている)というキーワード。アテネなど一連のポリスが僭主制もしくはその変形的な支配形態としての民主制に移行していく中、イオニアの社会は対照的に「支配」に固着することがないイソノミアによって特徴づけられていた、と著者は述べる。なぜそうだったかというと、商業・交易の発達により、人が絶えず移動する(新たな植民を興す)という動的な社会だったからだという。そうした個の移動=運動の発想は、後のタレスからデモクリトスにいたる自然哲学の系譜にも反映されている……というか、彼らの哲学が「失われつつあったイソノミア」を取り戻そうという試みだったと著者は考えている。

なるほど、デモクラシーと対照的だとされるイソノミアを大きくクローズアップしているのは刺激的だ。けれど、それにしてもそのイオニアにイソノミアがあったということが確証されていなければ、この壮大な反哲学史(従来の哲学史に反するという意味で)の試みは壮大な空論にしかならないのでは、という気がした。で、実際のところ、それは確証されているとは言いがたい。下敷きになっているのはハンナ・アーレントの議論だが、それだって断定的に推論が綴られているにすぎないし、ほかにヘロドトスなどの使用例がいくつか言及されているけれど、イソノミアなる統治形態が本当あったことを確証する根拠には乏しい……。事実、同書を受けて特集を組んだ雑誌『atプラス』15号では、納富信留氏の寄稿がそのあたりを取り上げていて、イソノミアには「アルケー」「クラトス」という支配を意味する語尾が入っておらず、したがって支配の意味合いがないというアーレントの思弁を批判している(「エウノミア」「アウトノミア」などの語を見ても、そこに支配の意味合いがないわけではないという)。また、イオニアの植民地としての起源説や、初期のイオニアに平等の社会や理念が存在したという話そのものについても批判的な立場を取っている。学問的に究明される「事実」から議論を組み立てるのでなければならない、というのが同氏の基本スタンス(至極当然の)で、してみると、アテネ中心史観を批判するための視座としてのイオニア再評価の目論みも、今の段階では性急な理想化・理想主義として斥けられなければならないことになりそうだ。もっとも、同誌のほかの論者たちも述べるように、少なくともその議論から汲むべき、現代に通じる論点の数々は、活かす方途を考えてしかるべきかもしれないが……。

今年もLFJ(初日)

毎年のように期間中一日だけ行っている「熱狂の日」音楽祭だけれど、今年も昨日の初日に5公演をハシゴした。というわけで、印象を簡単にまとめておこう。今年はフランスの近代音楽(&スペインもの)ということで、なんとなく去年などより人出が多かった気がする。個人的に、3月にラヴェルの「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」を生音で聞く機会もあり、なんだか今年はラヴェルづいている感じ。そんなわけで一つめはエル=バシャのピアノでラヴェルのピアノソロ曲。「亡き王女のためのパヴァーヌ」「鏡」が含まれたプログラム。改めてラヴェルの良さを味わう。続くバル=シャイのピアノはクープランの名曲集。チェンバロではなくピアノで聴くクープランは久々だけれど、なかなかオツなものだった。「神秘的バリカード」のテンポの速さとかいろいろ面白いところもあってとても満足。三つめはディレクターのルネ・マルタン選曲のク・ド・クール。毎年やっている特集コンサートだけれど、個人的には初めて。ここでも前半のラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」がむちゃくちゃ面白い。いいねえ、ラヴェルは。でも、このコンサートの印象をすべてかっさらっていってしまったのは、なんといっても最後に登場したカスタネット奏者のおばちゃん(ルセロ・テナ)。いや〜すごいっすね、このパフォーマンス。PA通してるにしたって、オーケストラに負けないカスタネットって、いったい……(笑)。リチェルカール・コンソートは予定してたソプラノ歌手(セリーヌ・シェーン)が来日できず、器楽だけに曲目も変更しての演奏。マレ「ラ・フォリア」とかが追加されていて個人的には嬉しいものの、落ち着いて聴けるのはいいのだけれど、少し何かが物足りない気も……(苦笑)。最後はスペインもので締める。ファリャとロドリーゴ。とくにこの後者は「アンダルシア協奏曲」で、ギター四重奏が予想通りど迫力。

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思想の手触り(デカルトへ)

連休の前半ということもあって、積ん読から村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社学術文庫、2012)を眺めてみた。これは久々に読む本格的な哲学論考。初版は90年だという。1630年の四つの書簡から『省察』にいたるまでのデカルトの思想的歩みを、文章に即して緻密に追っていくといういわば王道の研究書。記述はある種の迫力というか緊張感を湛えていて、読む側をどんどん引き込んでいってしまう。原文に丹念に寄り添い、デカルトのテキストが何を語り、何を語っていないかを切り分けて、その語っていない部分はそのままに、語っている部分をあるがままに見極めようとする手触り感がすごい。たとえば『方法序説』「第4部」の、神の実在と「一般規則」のあたりの話。「橋が見出されない、否、橋が見出されるようには書かれていないこの場所で、橋を見出そう、デカルトの述べるところを踏み越えても橋を架けようとすることに分はあるまい」(p.147)。その上で、デカルトのテキストからその思考の歩みのようなものが再構築されていく。「神についての認識なしには強力な「一般規則」も保証されない。真理を語り出す場を手に入れることができない。神の認識の内容と重要性こそ、デカルトがここで説いて聞かせようとしていることなのである」(同)。あえてこの渾身の読みに補助線を引くことができるとしたら、おそらくその一つは、デカルトが前提としていたであろう同時代的な様々な知識(もちろんそれらも再構成されたものとしての、だけれど)への目配せではないかということを強く感じもする。テキストから浮かび上がるデカルトの思考の歩みは、そうした補助線を引くことでさらに鮮明になっていくのではないか。とまあ、そんなことを考える連休の狭間のなか日……。