その内容の一端について取り上げた論考を眺めてみた。トマス・エッケンバーグ「オブリガティオ論争での順序」(Thomas Ekenberg, Order in Obligational Disputations, Medieval Forms of Argument: Disputation & Debate, Wipf & Stock Publishers, 2003)というもの。バーリーの著書が挙げているというオブリガティオのルールのうち、とくに質問者がまず発する基本的スタンス(positum)の順番に潜む問題を取り上げ、同時代のリチャード・キルヴィントンがそのルールについて寄せた異論を紹介している。オブリガティオはまず、質問者が掲げるpositumについて応答者が肯定・否定・疑念のいずれかを発しなくてはならない。もしpositumを認めるなら、続いてそこから帰結・派生する事象(質問者が提示する)も認めなくてはならない。また、帰結・派生するのがpositumと相容れない事象であるならば、応答者はそれを否定しなくてはならない。positumと無関係の事象が提示された場合には、応答者の裁量で肯定・否定ができ、また疑わしい事象である場合には疑念ありと述べることもできる。ここで、どういった順番でpositumとそれに関連する事象が質問として掲げられるかが問題になる場合がある。たとえば、バーリーが挙げる例らしいのだが、こんな事態が生じうる。ローマにおらず、枢機卿でもない応答者が、「あなたはローマにいない、あるいは枢機卿である」というpositumを認めさせられると(少なくとも前半は正しいので)、「あなたは枢機卿である」という派生的な帰結をも認めなくてはならなくなる。逆に「あなたは枢機卿である」が先に発せられれば、応答者はこれを否定し、「あなたはローマにいない、または枢機卿である」も否定することができる。
夏から引き続き読んでいるプロクロス『パルメニデス注解』第一巻(Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere et 2e partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque), Les Belles Lettres, 2007)。ようやく一巻目の末尾にまで到達した。登場人物の配置をそのまま流出の各段階の喩えとして捉えた総論の後、プラトンのもとのテキストに沿った注解が展開し始めている。もちろんまだもとのテキストの冒頭部分でしかなく、若きソクラテスがゼノンに食ってかかる(というといいすぎか(笑))あたりの注解なのだけれど、ここですでにパルメニデスの唱える「一者」についてのプロクロスの見解がまとめられている。流出論的に第一位の座に喩えられるパルメニデスにおいては、「一者」もまた隔絶的な存在であり、他に与ることも他から与られることもない。一方、第二位の座とされるゼノンが扱う「一者」は、多へとつながっていく大元の「一」、つまりは多をもたらす原理を指していて、多の中の共通部分としての「一」であることがとりわけ強調されている感じだ。
二巻以降はおそらく、さらにその下のレベルへと話が進んでいくのだろうと思われるが、それは引き続き読み進めてから報告しよう。で、これも少し先走り的ではあるけれど、並行してフィチーノの『パルメニデス注解』も見ていくことにした。使うのは羅英対訳本(Commentaries on Plato, Volume 2: Parmenides, Part I (The I Tatti Renaissance Library), Maude Vanhaelen, Harvard Univ. Press, 2012)。まずは訳および注釈者ヴァンヘイレンによる解説序文にざっと目を通す。プロクロスの『パルメニデス注解』の受容史なども含めて要領よくまとまった文章で、いろいろと勉強になる点が多い。まず、プロクロスとの全体的な違いということで指摘されているのは、プロクロスが異教の神学者然として全体的な体系を詳述しようとするのに対し、フィチーノはむしろその神秘学的な性質にいっそうの関心を寄せている点。たとえばプロクロスは、一者から多が生じることの説明のために、一者と多(イデア)の間に「ヘナド(一者に関与するもの)」という中間レベルを設ける(ゼノンが扱う部分だ)。これに対してフィチーノは、そうしたヘナドが指し示すのは多のそれぞれの中に存在する神的な性格なのだと捉えているという。総じてフィチーノは、プロクロスのような明確な階層化よりも、プロティノスの流出論的解釈(知性とはあくまで一者の横溢によりあふれ出るものであって、低位の別階層として指定されるものではない……)を好んでいるのだという。これが一つめの軸線となっている。もう一つの軸線はピコ・デラ・ミランドラとの対立だ。アリストテレスをも神学的な伝統に含めようとするピコに対して、フィチーノはプラトン哲学の神学的要素における優位性を擁護しようとし、さらにはピコの批判のためにスコラ学の用語などを駆使したりもするのだとか。