ストラボン

Strabon, Geographie: Tome XIV; Livre XVII, 1ere Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque)これもすでにして夏読書だが、ストラボン『地理学』を読み始める。とはいえ冒頭から読んでいるわけではない。読んでいるのはLes Belles Lettresの対訳本のうち、2015年に出た第17巻第1章(Strabon, Géographie: Tome XIV; Livre XVII, 1ère Partie (Collection des Universités de France Serie Grecque), trad. Benoît Laudenbach, Les Belles Lettres, 2015)。なんとこの17巻は、『地理学』の最終巻にあたる部分。ナイル川沿いのエジプト、エチオピアの地誌が取り上げられている。まだ冒頭部分のみ囓ってみただけだが、ナイルの増水についての記述(第1章第5節)で、古代の著作家たちに言及している部分など、なかなか面白い。

ストラボンは前1世紀の古代ローマのギリシア系著述家だが、それ以前の「古来の」著者たちに、ときにリスペクトを込めて、ときに批判的に言及しているようだ。で、ここではそれらの先人たちが、ナイル増水の原因、すなわち夏季の雨量の増加現象についてよく理解していなかったようだと述べている。雨量と増水の関係そのものはよく知られていて、とくにアラビア海の航海者や、ゾウ狩り(!)のために派遣されていた人々などが、職務に影響するせいでそうした現象を問題視していたという。けれどもその一方で、雨量の増加については満足いく説明はなかったようで、なぜ夏場だけなのか、なぜ南部地域だけなのかが謎だったようだという。もちろん説明の試みがなかったわけではないようなのだが、そこにも古い文献の伝統が介在していたようで、ストラボンと同時代のポセイドニオス(前1世紀)の報告はカリステネス(アリストテレスの弟子)の説明をもとにし、それがまたアリストテレスの説明にもとづき、それもまたタソスのトラシュアルケス(自然学者だという)の説明の焼き直しで、さらにもう一人(名前は不明)を介して、ホメロスのナイルについての記述に行き着くのだという。さらにストラボンは、ナイルの増水の同時代の説明について、エウドロスと逍遙学派のアリストンなる二人の人物名を挙げて、両者の記述がそっくりだという逸話も披露している。ここに出てくる人々の、実際の説明や記述を確認してみたいところではある。いずれにしても、このようにストラボンの記述は存外興味深い点が多い印象だ。夏読書にはもってこいかもしれない(笑)。

宗教と哲学の構え方?

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)思うところあって、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)』(桝田啓三郎訳、岩波書店、1969 – 2016)を読み始める(気分はもう夏読書という感じではある)。早速ながら、この第二章がなかなかよい。大上段に構えた「宗教の本質」といった抽象概念から話を進めるのではなく、ボトムアップ的に「宗教的感情」というものを個別のケースから分析していこうとしている、その姿勢にまず共感する。そこから、考察の対象に据えるのはあくまで個人的宗教で、制度的なものではないというスタンスが浮かび上がる。神的なものを感じるという内的体験はどこから来るのか、どのような精神状態がもたらすのかという問題をめぐって考察が展開することが、ここで宣言されているわけなのだけれど、ジェイムズはさしあたりここではそれを「宇宙を受け容れる仕方」と規定し、その際のありようを、ストア派の哲学者とキリスト教の聖者でもって対比してみせている。前者の代表とされるのはマルクス・アウレリウスで、その受け容れ方は「冷たい」「情熱と歓喜がない」とされる。一方の後者は、『ドイツ神学』なる文書の14世紀の逸名著者に託されている。そちらは「高級な感情の興奮をもって」(「熱く」?)受け容れるとされている。その差異は、前者が神の計画(宇宙のありよう)への同意、後者が神の計画との合致呼応だとジェイムズはまとめてみせる。うーん、だけれど個人的には、マルクス・アウレリウスの構え方にも、抑制されてはいるのかもしれないが、どこか沸々とした熱いものが感じられないわけでもないと思われるのだが……。確かに、表出の違いはあるだろうし、受け容れに際しての感覚の巻き込みをどれほど伴うのか、という点の違いもあるのかもしれないが、その「熱いか冷たいか」というテーマ系自体にも、内実を開いて細やかな分析を施すことができそうにも思える。また、そうした感情の巻き込みがどこから生じるのかという、よりストレートな問題設定も当然ありうるだろう。そんなことをツラツラ思いつつ、次の章へ……。

ピエトロの『調停の書』受容史から

cop_ML50SISMELから出ている論集『中世からルネサンスの医学、占星術、魔術−−アーバノのピエトロを中心に』(Médecine, astrologie et magie entre moyen âge et Reinassance: autour de Pietro d’Abano, ed. J,-P. Boudet, F. Collard, N. Weill-Parot, Sismel, 2013)を見始めたところ。早速一つ面白い論考があった。シャンドリエ「アーバノのピエトロと医学−−14世紀初頭のイタリアにおける『調停の書』の受容と評判」(Joël Chandelier, Pietro d’Abano et les médecins : Réception et réputation du Conciliator en Italie dans les premières années du XIV siècle, pp. 183 – 201)。アーバノのピエトロは同時代人や後世の人々に多大な影響を及ぼしたと言われていたけれど、どうやらそういう評価が確立したのは15世紀、正確には1420年から40年くらいなのだという。この論考は、ではそれ以前の評価はどうだったのかというところに的を絞り、主著『調停の書』発表(1310年ごろ)直後のイタリアでの評価を追っている。ここでは主に二人の同時代人の評価が示されている。ジェンティーレ・ダ・フォリニョ(1348没)とディーノ・デル・ガルボ(1327没)だ。これらはいずれも、ピエトロの没後からほどなくしてその著書を自著で取り上げるも、高い評価を与えず、とくに後者などはアヴィセンナの『医学典範』にもとづいてガレノスへの回帰を説き、ピエトロやアヴェロエスなどからの批判を斥けているという。総じて、そうした低評価はしばらく続いていたようで、論文著者はそれを、ピエトロが大学の枠組みの中で孤立していたことや、占星術の修得を説いていることなどがその原因ではないかとしている。なるほどそれは、アヴィセンナ(ガレノス=アヴィセンナの路線がイタリアの大学の医学部の主流派だったようだ)が占星術の計算の価値について留保を示していたのと対照的だということか。逆に今度は、1420年ごろから16世紀初頭にかけて、印刷本を中心としてピエトロの主著が徐々に好評を博していったという理由も気になるところではある。