ドゥルーズとの共著はともかく、単著については多少とも食わず嫌いだったフェリックス・ガタリ。けれども最近、改めて少し詳しく眺めてみてもよいかもと思うようになった。意外にそれがリアルポリティクスの諸相をうまくすくい取れているかも、という話を耳にしたからだ。とりあえず邦訳で、ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて』(杉村昌昭訳、青土社、2014)を眺め始めているところなのだけれど、考えていた以上に、確かにそんな印象もある。原書は2011年刊だというが、実は70年代後半、主著『分子革命』後に書かれた原稿なのだそうで、内容的にも主著と重なっているようだ。ガタリの基本的・理論的なスタンスは、精神分析において家族などの固着的な図式に則って解釈されるリビドーの議論を批判するところから始まる。本人はその批判的な言説を「証明」と称してはいるものの、もちろんそれは仮説的な話でしかない(そのあたりで、すでにして批判的な読者も当然出てくるだろう)。けれどもその批判は広範に敷衍されていき、そのあたりが最初の読みどころにもなっている。リビドーの動きはもっと不定形なものとして、一種機械のごとくに自動的に産出されるだけではないかということをガタリは確信している。そこから諸々の発現形(欲望の、あるいは記号・表象の)がいかに構築され、リビドーの経路を誘導していく・方向づけていくのかを分析しようとするというわけだ。したがってその発現形の分析は、固着した構造の分析とは抜本的に異なるし、領域横断的なものにならざるをえないほか、きわめてリアルなものに接近せざるをえない。ガタリは構造主義が扱うような構造体を「樹木<ツリー>状」と捉え、領域横断的な自身の分析をその「地下茎<リゾーム>」に喩えてみせる(この点から、ツリー対リゾームという構図だけを取り出して批判するのも、また的を外していることがわかる)。
また、そうした発現形はいずれにしても無垢というわけにはいかず、かならずなんらかの緊張関係・権力的関係を内包している。それは資本主義が課す社会的機構だったり、日常的なミクロの権力だったりする。外装(装備)としてのツリー的な構造体を、地下茎的なアプローチで批判的に分析するなら、そうした関係性を浮かび上がらせずにはいないはずだ、とガタリは主張する。精神分析を批判的に取り上げてリゾーム的な分析を提唱する理論編以上に、こうした社会的なものへの言及箇所のほうが俄然面白くなってくる印象だ。ガタリはどこかつねにジャーナリスティックなのかもしれない。もちろん、たとえば西欧の近代の萌芽を、中央集権化していた古代からの諸制度から、それに代わる脱領土化したキリスト教の組織化・社会的分節化が進んでいく11世紀に見ているところなども、大まかな捉え方ながら興味深くはある。それが貨幣経済・資本主義の流れの発端に位置付けられている(もちろんそこには異論もあるだろうけれど)。さらに後の歴史についても様々に言及されている。けれども、やはり白眉は70年代ごろの社会現象への批判に切り込んでいくところ。それは今現在の問題とも様々な面で重なり合う。たとえば「国家権力のあらゆる具体的表現」に抗しうるには、「労働運動やあらゆる種類の少数派民衆運動を麻痺させる官僚主義的構造を同時に”解体する”ことが前提条件」になるとの指摘や(p.109)、報道機関に関して、それらが「<擬似出来事>を発表して、多くの読者・観客の視覚的歓声を操作することだけが目的」(p.134)なのだと喝破したりするところとか、68年の革命後の「リベラル保守の政治家やテクノクラート」の「小心翼々たる改革案」が、プチブルの最も保守的な層向けにすぎず、「左派と右派に対抗する<近代派>」を自称しながら、旧来のものよりいっそう抑圧的な装備を施したことを蕩々と述べているところとか、今読んでも(あるいは今だからこそ?)身につまされるかのようだ。