これも年越し本だが、アレクサンダー・R・ギャロウェイ『プロトコル: 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか』(北野圭介訳、人文書院、2017)を見ているところ。脱中心化時代の制御を担うものとして「プロトコル」(一般には「規約」ほどの意味で、周知のとおりコンピュータ界隈でも通信規約の意味で使われる)を概念化しようという壮大な企図なのかもしれないが、理系的・工学的な情報を文系的なイマジネーションの包み紙でくるむことによって、概念本来の身の丈から無理矢理逸脱させようとしているふうに読めたりもする(著者曰く、プロトコルとはそういう情報を包んだものなのだというが……)。
基本的な話としては、ネットワークというものを、単なるメタファーの類としてではなく、物質的なもの、他を物質化するものとして捉えることで、管理・制御社会の権力関係についての理解を多様化・複雑化するというのが、著者の狙いだとされ(ユージン・サッカーによる序文)、そのためのメディウムに位置付けられる「プロトコル」は、一種のマネジメントシステムとして、フーコーの「テクノロジー」概念のごとく、またそれをより物象化したかたちで、個別化されると同時に制度全般へと普遍化・敷衍される。こう整理すると、フーコーの生権力・生政治の議論を、より技術的なレイヤから再考しようというマニフェストのようにも見えるが、その議論はどこか疾走・暴走ぎみ(?)。現実的な通信ネットワークのプロトコルはなんらかの中央的な決定機関を前提としているわけだけれども、なるほどそうした決定はときに大きな影響を与えもするだろうが、そうでもない場合もある。その影響関係を具体的に論証するのは難しいし煩雑になるだけだろう。さらにその守備範囲を社会的なもの全般へと拡げるとなると、困難はいや増すだろう。たとえば著者が挙げる、手続き型のプログラミングからオブジェクト指向型のプログラミングへの移行などは、著者が言うほどの「分散化」をもたらしているとは必ずしも言いがたいし、そこから直ちに、官僚主義や階層秩序から分散型社会システムへの移行へと話が飛躍していくのもいささか性急すぎるだろうし。人工生命形式の話にまで至るくだりなどはサイバーパンクの戯画すら思わせる。ここには、前に記したアナロジーと学問というテーマの、ある種の限界点(臨界点?)が見いだせるようにも思われる。そのアナロジーは学問的・発見的に意義あるものとなりうるのか、そこにはアナロジーの悪しき用例、アナロジカルな断絶が見いだされるのではないのか……などとつい考えてしまう。もっとも、白状してしまうと、こういう疾走感・暴走感自体は決して嫌いではなく、休日に読むエンターテインメント(失礼!)としては悪くないという思いもある……。