チョムスキーがかつて提唱した普遍文法の思想的射程というのはなかなか広範で、全体としては科学に立脚する自然主義を哲学の領域にまで浸透させる一助となったほか、そこに生得説をもちこんで定着させもした。けれども、自然主義そのものはよいとしても、それがときに生得説とイコールのように扱われることには、個人的にも違和感を感じたことがある。自然主義と生得説との繋がりは、必ずしも必然的ではないのではないか、と素人考えでも疑問に思う。そのあたりを改めて問うてみせているのが、植原亮『自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー』(勁草書房、2017)。入門書の扱いだけれど、全体としてなかなか刺激的な内容でもある。チョムスキーの言語観を受けて、たとえば道徳の普遍文法といったものを提唱する人々が登場し、倫理的判断が人間にもとより内在しているといった議論を展開する。この一派はそれなりに認知されて、一定の影響力をもつようになるわけだが、ある意味それは倫理的な判断がすべてあらかじめ内在しているという「強い」生得論をなす。一方で生得論の中にも諸派があって、たとえば生得的モジュールという考え方を採用する中庸な一派もあったりするという。いずれにせよ、そうした議論に対して、経験主義の人々が対立する。彼らは、生得的な部分を最小限に留め、基礎的な感情や汎用の学習メカニズムのようなものに縮小し、道徳的価値観がそこから経験を通じて発達すると考える。
こうした生得論vs経験主義の構図は、なにも倫理の問題に限定されてはおらず、心理一般にまで拡大される。科学的な知見からは、生得論的なものが圧倒的に有利になるかに思われた。けれどもここで著者は、むしろ経験主義の巻き返しについて言及していく。心理的なものが経験を通じて発達するという議論においてとりわけ弱点となるのが、抽象概念の獲得についての説明だというが、近年の人工知能の深層学習などを見るに、汎用学習メカニズムの実質として「統計的学習」の可能性が浮かび上がってくるのだ、と著者は言う。もしこれがそうした抽象概念の獲得、あるいは言語の習得について十分な説明を担いうるなら、道具立てのシンプルさにおいて、それは生得論に勝ることにもなる……と。なるほど両者のせめぎ合いの尺度の一つとして説明的合理性を競う面があるのは確かだ。けれども結局はどちらも推論・仮説同士をぶつけ合うほかなく、著者も言うように、どちらか一方の全面的勝利は期待できそうにないという印象も強い。それもあって、同書の終盤では、生得説と経験論の融合の試みがまとめられている。とりわけ中心的なものとして紹介されている二重プロセス論(人間の認知を、システム1、システム2のプロセスからなるものと考える立場。デュアルモードカメラに喩えられているのがなかなか愉快だ)の仮説は、それはそれで問題含みな気もするものの、一つの仮説の立て方としては興味深いものがある。