動物がらみという関連で、これもまた年越し本となったのが、パトリック・ロレッド『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』(西山雄二、桐谷慧訳、勁草書房、2017)。原著は2013年刊。デリダ晩年の動物論が、実はその思想系全体を貫くものだったのではないかという観点から、その全体像を読み直そうという試み。デリダの実人生の歩みと絡めた評伝的な序章に続き、各章ではデリダが用いたなんらかの概念・テーマ系ごとに(ファロス=ロゴス中心主義、ファルマコン、政治の問題などなど)、動物性についての考察がその底流をなしていることを説き証そうとする。デリダのもとの議論、それぞれのテーマ系は、通念的なものの成立を支えている隠された部分(それがとりもなおさず他性としての動物性なのだけれど)をなんらかの反転的思考で明るみに出そうとするものなのだが(脱構築というのはもとよりそういうもの)、同書のアプローチはいたってシンプル、もしくは古典的・オーソドックスなもので(後期思想から、前期・中期をも貫く部分を浮かび上がらせるという手法)、確かに全体的な見通しはかなり良くなりはするのだけれど、そこにわずかばかり違和感を覚えたりもする。なるほど、動物性の議論がデリダ初期からの思想的核心部分を形成しているのではないか、というスタンスそのものは興味深いものであり、各種のテーマ系に動物論が連なっていること自体は確かに否定しがたいとしても、逆に動物論の側に各種のテーマ系が連なりうるのかは、それほど自明ではないのではないか、という気もしなくない。また、そのような連続の相での観点から全体を視野に収めようとすると、デリダ思想の入門書を標榜するものにありがちな、どこか後出しジャンケン的、いうなれば還元主義的な気配を色濃く感じさせずにはおらず、根源を問うているはずの微細な議論が、どこか雑な大枠に押し込まれて不自由なものに見えてしまう嫌いもあるのでは、と老婆心的に思ってしまうのだ。動物性あるいは動物一般を放逐することで人間は主権を、あるいは主権的権力を構成しえたものの、それゆえに動物は従属という形で暴力的に人間の主権的権力に結びつけられてしまい、いびつなかたちで関係性を結ばされている……といった根本的な視座ないし議論を扱うのであれば、翻ってこうした評論あるいは思想研究にも、それ自体を成立せしめているある種の暴力性を認め、暴き出すようなところから始めていく、というほうが、むしろデリダ的にオーソドックス(こう言うとなにやら言葉の矛盾のようでもあるけれど(笑))である気がするのだが……(無い物ねだり、か)。もちろん、デリダもまたこういう古典的アプローチの対象になったのだなという、ある種の感慨を改めて覚えはする。