今週もあまり空き時間がない一週間だったが、息抜きとしてティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学』(筧菜奈子、島村幸忠、宇佐美達朗訳、フィルムアート社、2018)をときおり眺めている。前作『ラインズ 線の文化史』(ブログ記事も参照)に続く本作は、広義のエクリチュール論みたいな部分をさらに大きく超えて、気象・大気といった、哲学的にあまり顧みられない事象の考察へと足を踏み入れいれている。ライン(曲線をも含む)概念がそれらにどう繋がるのかといえば、ラインがなんらかの存在論的な資格を得るとすれば、そこにはラインを紡ぎ出すおおもとで、ラインと相補的な関係をもなす、これまた広義のブロブ(塊)がなくてはならず、そうした集積をなすアナロジーとして引き合いに出されるのが、たとえば気象現象としての台風のような渦巻く結節点だったりするのだ。そうした「渦巻き」は、ベルクソンが言うように(「生ある存在は生の流れの中に放り込まれた渦巻きのようなものである」)生物全般に見いだされる有機体の「渦巻き」とも照応する、とされる。それは大気にも、海洋生物にも、さらには人間集団の行動にも、同じように見いだすことができるのだ、とインゴルドは言う。アナロジーとしての相互の照応の連鎖。それこそが、インゴルドの「ライン学」を支える枠組みだといえそうだ。すべての事象を、ある意味「気象学」として、ラインと渦巻きの変成作用のごとくに読み解くこと。けれどもそれは、吹き荒れるアナロジーの暴風をみずから創り出して、その中に飛び込んでいくかのような、通常の論証などとは別筋・別次元の、どこか危うくもある企て、という気がしないでもない……(?)。
とりあえず、まだ読了はしていないし、インゴルドの向かう先も今一つ掴めていないので、そうした判断は保留にしておくれけれども、それとは別に、このところなにやらデュルケムとモースの系譜の話を個人的にはよく目にするように思う。たとえば、夏頃に刊行された『nyx 第5号』(堀之内出版、2018)の第一特集「聖なるもの」でも、デュルケム=モースの系譜(それもまたラインだが(笑))が、「聖なるもの」が孕む諸問題の発出点として重要視されていたように思う。インゴルドにおいても、着想源の一つが両者の系譜にあるのはほぼ確かなようで、繰り返し何度か言及されていたりして、なにやらとても印象的だ。デュルケム=モースに少しばかり立ち返ってみるのも、有益かもしれないと思い始めているところ。