朱子学の問題機制

朱子学 (講談社選書メチエ)これもずいぶん前からの積読もの。木下鉄矢『朱子学 (講談社選書メチエ)』(講談社、2013)。でも読んでみると、扱われているのはまさに(西欧の)哲学史研究の醍醐味でもあるような細やかな文献解釈の諸問題であり、こういうのは個人的にも高揚感を覚えるところだ。朱熹のテキストに沿って朱子学のいくつかの大きなテーマを読み解いていくという内容で、その誠実かつ実直な、細やかな手際に好感度も高い一冊。「学」「性」「理」「心」「善」といった概念について、細かく読み解いていく。学はもちろん学ぶことだが、ここでの学知は西欧の哲学的伝統とパラレルに、先覚(先達)の残した書の注解を通じて「まねぶ」こととされている。「性」は「性善」というような場合の「性」で、これは日常の具体的な「事」を抽象する一時的な抽象と、さらにその根拠にいたるもう一段の抽象を経た、いわば二重の抽象化で示される「理」だと解釈される。そこでも、太極(全一的な絶対存在)から事物が発出する構図があるというあたり、まさにプロティノス的な流出論を想わせたりもする。そして最重要ともいうべき「理」。これは流出の最初の段階から後の諸段階にいたるまで、媒質としての「気」を介して万物を化生(生成)するというプロセスの法則そのものを言うとされる。

何度か出てくる話として、朱熹(12世紀)が用いている「物」という語が、いわゆるモノを指すのではなく、むしろ「事」を指しているのではないかという仮説がある。これが実は全体を貫く一つの基調になっているようにも思われる。その仮説の根拠はもちろんテキストにあるのだけれど、漫然と読んでいては浮かび上がらないような、精妙な機微を含んだ説になっている。またそのように精緻に読むことで、朱熹の言う「理」、つまり万物の「造化発育」(生成)を貫く根拠としての「理」(二段めの抽象)が、単なる作用ではなく、能動的な行為、いわばプロセスにとってのおおもとのプログラムとしてあることが浮かび上がる。

そうした解釈の鍵は、当然ながら細かなテキストの照合にある。そしてテキストは、もちろん単純なものではありえない。たとえば個人や物に賦される「性」が、陰陽五行の「仁義礼智信」の気に対応するのか、それとも「仁義礼智」のみの四端に対応するのかをめぐる揺らぎがあるようだし、また上の「物」を「事」と解釈する議論の典拠をなすテキスト群にも、朱熹自身による改訂の際の異動があるようで、その改訂の方向性の話などはとてもスリリングだ。

そんなわけで、朱子学は(従来思われていたように?)安定的で一貫性をもった完成度の高い思想体系というよりも、むしろ動的で、展開途上にあるような、ある種の強度をもった自然哲学的試論という位置づけ(?)がふさわしいようにさえ思えてくる。テキストをめぐる問題機制というのは、洋の東西を問わずパラレルかつエキサイティングなのだなということを改めて感じさせる。