「世界の終わり」は終わらないが……

抽象的な破局論vs感性的なもの


 このあいだまで読んでいた会田誠の青春小説『げいさい』(https://amzn.to/34PvQe2)に、チェルノブイリの原発事故について学生たちが、ほとんど対岸の火事のような感想を述べ合うシーンがありました。遠すぎてピンと来ない、という感じのものいいです。当時の日本では、実際にそういう感じだったかもしれません。でも、ならば地理的には比較的近い欧州では、これまでどんな感じで受け取れられてきたのか、今現在ではどうなのか、といった疑問ももちろんあります。

 ちょうど昨年、気になるタイトルの本が出ていたので、取り寄せてみました。ジャン=ミッシェル・デュラフール『チェルノブイリアーナ』がそれです。副題が「放射能時代の美学とコスモロジー」となっています(Jean-Michel Durafour, “Tchernobyliana – Esthétique et cosmologie de l’âge radioactif”, Vrin, 2021)。

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 まだ冒頭の序文を読んだだけですが、すでにして破局論的な考察になっていて刺激的です。著者は「対岸の火事」的な見方はもっと普遍的なものだと考えているようです。事故や災害は、「世界の終わり」を思わせるけれども、「世界の終わり」は世界の中にあってこそのものであって、そもそも世界の終わりというのは言葉の矛盾ではないか、というのですね。たとえ世界の終わりが絶望であるとしても、絶望に意味があるのは希望を信じ続ける(たとえ希望を否定するのであっても)場合のみであり、破局の概念にはつねに・すでに、そうした終わらない世界、あるいは継続する希望が内包されているのではないか、というのです。

 こうして西欧人にとっても、破局は必ずやどこか「対岸的」、あるいは抽象的なものでありつづける、という話になります。彼らにとって比較的近い事象だったチェルノブイリの一件も、まさにそのような終わりのない世界に属する事象だというわけです。

 同書の著者は、一方でチェルノブイリが、西欧の人々のイメージの実践(芸術活動)、まなざしの実践を変貌させ、新しい見方をもたらしてもいるとも指摘します。破局は様々な知的立場を喚起し(原子力への賛否や国家の対応の是非、なんらかの意識の覚醒などなど)、破局にまつわるなんらかの美学は、そうした立場を抜きには考えられない、というわけです。チェルノブイリは、政治的なものに対する、感性的なものの新しい布置(アジャンスマン)を秩序づけているがゆえに、美学的な価値を内包している、と。

 その意味で、チェルノブイリすら対岸とみる、のほほんとした破局論に、そうした新たな布置の感性的なものは対立します。後者を前者に突きつけ、前者を揺さぶること。これが同書の基本線になっていくようです。フクシマすら薄れつつある現状の日本にとっても、同書の基本的考え方は、忘却にあらがう仕方の指針の一つになってくれるでしょうか?