ネットでの炎上を描く秀作

アベル・カンタンの風刺(?)小説、『エタンプの預言者』(Le voyant d’Estampes)を読んでみました。邦訳は中村佳子訳、KADOKAWA刊(2023年)。引退した大学の教師ロスコフが、ロバート・ウィローなるアメリカからフランスに渡った詩人についての本を出版するのですが、その出版記念のトークショウで、聴衆から、ウィローが黒人であることを軽視したのはなぜかと問われ、質問者が納得するような答えを示せず(ウィローにとっては、黒人である以上に、共産主義者だったことが重要なのだと力説します)、このことがネットで批判されてしまい、やがて本人の無防備さもあって(擁護してくれた著名人が、極右政党に入っていたことも知らずに、その著名人にSNSで礼を述べてしまうとか)、大炎上が始まってしまいます。
https://amzn.to/4gJpvlh

主人公のロスコフは、SNSなどでの対応などが思いっきりまずいにも関わらず、批判に対しては感情むき出しで反論するタイプ。80年代の人種差別反対運動に参加したリベラルな「若かりし頃」が自画像としてあり、それが逆に足かせになって今の時代に適応することができず、「文化の登用」とかも理解できない初老の白人男性……。なんだか身につまされる気もする話ですが、とにかくロスコフは、落書きやドアを壊されたりする嫌がらせに、ひたすらじっと耐えるしかありません。その間も、脳裏では外部に対する怨嗟がぐるぐると渦をまき続けていきます。

些細なことをきっかけに、なんらかのレッテルが貼られ、それが増長してしまうあたりの描写が、やはりなにやら空恐ろしい感じです。政治家が言うみたいに「それはレッテルにすぎない!」と叫んでも、反論にはならず、さらなる攻勢を引き寄せるだけ。火のないところに煙は立たず、というわけで。政治家などの場合とは違い、この小説では、自分が自分にかけている認知的なバイアスが自覚されないところから始まって、徐々に少しだけ、その認知バイアスがゆらいでいくのかな(?)、という展開なのですが、その道もまたあまりに狭く険しく、また危うい印象を与えます。

小説は最後に、とても意外な結末がオチとして用意されています。ネタバレになるので記しませんが、このサプライズがまた見事に決まってフィニッシュとなります。個人的には、思わず「そうくるか」と思ってしまいました。作者は85年生まれとのことで、この作品(2作めだそうですね)で、フランスで若手に与えられる文学賞、フロール賞を受賞しています。

悪態の裏側

小説や映画などにはときに、現実世界でならゆっくりと進行するような変化・変質が、なんらかの極限状態によって、過激なかたちで描かれることがあります。最近アマプラで観た『悪い夏』(城定秀夫監督、2025)にも、そんなシーンがありました。
https://www.imdb.com/title/tt35419785/

とある市役所で生活保護の申請を受け付ける職員が主人公で、自身はごく普通の職務上の対応をしているのですが、あるときヤクザがらみの脅し・ゆすりの一件に関与させられてしまい、一種の極限状態に追い込まれ、申請者にとんでもない暴言を吐いてしまいます。このシーン、半ば妄想的に描かれるので、どこからどこまでが実際に言い放った言葉なのかわからないのですが、かなり壮絶で印象的なシーンです。

映画自体は扱うテーマのわりには平坦な印象です。日本の住宅事情もあって、狭い部屋に大人たちが6人も7人も押し合いへし合いするというのが、すでにして画面設計上の難点になっていたりとか。でもその追い込まれて暴言を吐くというあたりは、誇張されたものではあっても、どこかリアリズムを感じさせますね。人が悪態をつく背景には、たとえ小さなものであろうと、なんらかの軋轢(とその積み重ね)があることが窺えます。

この作品を観て、個人的にまっさきに浮かんだのは、アーレントのアイヒマン解釈をめぐる論集『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)でした。
https://amzn.to/47SyfmK

これによると、アイヒマンが組織の単なる歯車のような、凡庸な役人だったなどという見解はとうの昔に否定されているのだそうで、出世欲や功名心によって突き動かされて自覚的に職務を遂行していたというのが一般的解釈とされています。ユダヤ人をとくに憎んでいたわけではなくとも(その反ユダヤ主義は抽象的なイデオロギーにすぎなかったとされます)、「妬みや物欲、昇進への期待などといったさまざまな動機に突き動かされて、暴徒の群れに加わることになった」、「命じられた以上の成果を達成させていく有能かつ野心的な男の姿」が、そこにはあったというのですね。

しかしながらアーレントは、そこに思考の欠如を見出します。それは「全体主義の運動を批判的に捉える能力」の欠如のことで、後にはそれが「自身の独断主義のせい」だと言われたりもしていた、と。つまりは、「期待された役割を過剰に取り込みながら、昂揚感を追求したふるまい」にひたすら惑溺してしまい、それ以外が考えられないという思考の構えによるものだった、というのですね。

おそらくアイヒマンは長い時間をかけて、組織の中での自身の姿勢を練り上げていったのでしょう。その端緒を仮にぎゅっと圧縮・凝縮するなら、もしかすると上記の映画が描いた、主人公の妄想的で極端な文言に重なるのかもしれない、と思ったりしました。

「プロアイレシス」

昨年からずっとちびちび読んでいる Loeb版のエピクテトス『語録』は、ようやく下巻(3、4巻)に入ったところです。
https://amzn.to/3JVpE8Z

上巻のほうでも、また下巻に入ってからもとても気になっているのが、頻出する「プロアイレシス」という語。Loebのこの対訳では、ほぼ一貫して「right moral purpose」(道徳的に正しい目的)と英訳されているようなのですが、個人的にはこの訳語、妙に腑に落ちない気がし、なにやら居心地が悪くて落ち着きません。

エピクテトスは基本的に、人は自分が制御できる範囲とそうでないものを分けて、制御できる範囲・選択可能な事柄にのみ、自発的な働きかけを行えと説いているようなのですが、プロアイレシスはその文脈で登場し、エピクテトスは、このプロアイレシスから外れたことをしないよう心がけることが大事であると言ったりするわけです。

語源的には、プロアイレシスは「あらかじめ(プロ)選択すること(アイレシス)」ということで、そこから目的・目標、意図、企図、方針、さらには傾向、善意、献身などを意味するようなのですが、エピクテトスのテキストにおいてそれが正確にどのあたりのニュアンスを指しているのか、ちょっと解せない感じがするのです。

それは神々からもたらされた賜物なのだ、と語られていたりもし、「道徳的に正しい」というニュアンスはそのあたりを汲んでいるのかもしれませんが、制御の拠り所・基準点として、人間にあらかじめ備わっているなにかを指すとしたら、それは選択そのものと相容れないようにも思えますし、あるいは制御の可能・不可能性の境界線・分岐点に位置づけられるような何かにも思えます。基準をなすのですからとても重要なものであるはずですが、ではなぜそんな曖昧な位置づけになってしまうのか、なんだかよく解せない感じ……。こうしてこの数ヶ月、落ち着かない感覚をもちながらテキストと向かい合っていました。

で、ここへ来て少し新たな進展が。ちょうど、ダブルバインド理論などで知られるベイトソンの論集『精神の生態学へ』(岩波文庫)が、Kindle版で出ていたので、このところつらつら眺めていたのですが、これに、(明示されてはいませんが)プロアイレシスに関係しそうな文言があって、少しばかりヒントをもらえた気がしたのです。たとえばこんな一節。

意識の含む内容が、非意識的なマインドでの出来事からランダムに選び取られたものでないことは確実である。意識のスクリーンに映し出されているものが、マインド内の巨大な出来事の群がりの中から、体系的に選び取られていることは疑いない。しかしこの選択が、いかなる規則によって行われるのか、いかなるものが選り好みされるのかということについては、ほとんど何も知られていない。(下巻:「目的意識がヒトの適応に及ぼす作用」)

https://amzn.to/4pocMZ4

なるほどサイバネティクス的・ベイトソン的に読むストア派哲学、というのは面白いテーマかもしれませんね。この話、先の悪についての話にも関係してくるはずですし、もう少しまとまったらまた取り上げてみたいと思います。

改変ルールゲーム小説

このところ、ご多分にもれずハマっていたのがNetflix配信の『イカゲーム』です。まだようやく第1シーズンを観終え、第2シーズンに入ったところですけどね。主人公のキャラが第2シーズンでは変わってしまっているようなのが、ちょっと微妙なところですが、とりあえず最終話まで観ることになるのかなあ、と漠然と思っています。
https://www.imdb.com/title/tt10919420/

でもこの『イカゲーム』では、全体的なストーリー展開というか、人間関係の妙味は興味深いものの、子供の遊びに命をかけるという基本図式がかっちりしすぎていて、第1シーズンでは少なくとも、遊びそのものになにか特殊な改変ルールが施されるといった趣はありません。その当たりが、少し物足りないような気もします。ゲームを主題にする作品としては、そういう特殊ルールを配した『カイジ』(ある意味名作漫画ですね)などのほうが、駆け引き、やり取りそのものの複雑さが増していて、いっそう引き込まれます。

そんな中、そういう改変ルール満載な小説を読みました。青崎有吾『地雷グリコ』です。これも子供の遊びを取り上げながら、そこにゲーム内容を複雑にする要素が付加されることで、駆け引きの面白さが格段に高まるという仕掛けになっています。
https://amzn.to/3JNZ6q4

でもこれ、ゲーム内容も複雑なら、主人公の勝ち方もなんともアクロバティック的(イカサマ的?)で、ちょっともう無法地帯なところまで行っている感じですね。なにしろ高校生が3000万円勝負に挑むみたいな話になっていきますし。雰囲気としてはどこか麻雀小説・ギャンブル小説に近い感じです。

確かに、思いもしないところから反撃がなされていく、というのは爽快ではありますが、ただあまりにそれが突飛だと、少し引いたりもします。「イカサマもあり」がそもそもの前提になっていると、なにかゲームのゲームらしさそのものを損ねたりするような気もするのですがね。

……なんてことを考えていたら、ゲームらしさというのはそもそも何だろうという点に引っかかりました。そのあたりの話はまたそのうちに。