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ローマのギリシア人

個人的に続けている、「アルナルド・モミリアーノを仏訳で読む」プロジェクト、今度は『蛮族の知恵』(Arnaldo Momigliano, Sagesses barbares, trad. Marie-Claude Roussel, Gallimard, folio histoire, 1976)。原書は“Alien Wisdom: The Limits of Hellenization”(Cambridge University Press)。 ヘレニズム期を中心に、ギリシアが周辺地域(ローマ、ガリア、ユダヤ世界、イラン)とどう交流していたかを、史的な文献から読み解くというもの。まだ最初の3分の1くらいまでで、ローマとの関係についての箇所を読んだだけだが、これがまた興味深い。

というのも、それは凋落しつつあるギリシア世界と、台頭してきたローマとの多義的な関係性を明かすことになるからだ。力関係の変化・交代劇の様相は、直接そうした事例を扱っているわけではない歴史書の端々にも伺えるという。モミリアーノは第2章で、前2世紀の歴史家ポリュビオスと、それに続く世代のポセイドニオスをとくに取り上げている。彼らはギリシア語の著述家であり、ラテン語を用いることはなかった。彼らはローマの歴史について記すことはあっても、ガリアやほかの地域に対して行うような、一歩引いた民族誌的な立場でローマを眺めることはなかったようだ。ポリュビオスはローマがなにゆえにギリシアに勝るようになったのかをローマ人やギリシア人に対して説明しようとし、ポセイドニオスはローマの勝利を既得の事実として受け入れていたとされる。しかしそれは、(ローマの覇権という)現状をある意味肯定するための戦略のようにも見える、結果的に彼らによって、ギリシアの知識階級がローマの支配を受け入れ、統治において協力するようになる途が開かれた、とモミリアーノは指摘している。ローマの端的なわかりやすさは、そうした知識層に安寧をもたらすものだったのだろう、と。

一つ注目させるのは、ローマの言語政策かもしれない。ポリュビオスもポセイドニオスも、ラテン詩を読んでいた形跡はないというが、一方で当時のローマの統治者たちは、ギリシア語を話し、ギリシア語で考えることができていた。一方のギリシアの統治者たちはラテン語の意思疎通で通訳を必要としていた。そうした言語的な堪能さ・秀逸さだけを取ってみても、ローマの支配者らがいかに周到に統治のための手段を身に着けていたかは明らかだ。ギリシア語話者からすると、なんとも落ち着かない状況だったのだろう。2人の歴史家が、ローマのヘレニズム化のプロセスについて検討していないのは、そうした不愉快な状況の兆候だろうと、モミリアーノは述べている。

批評の捉え方

今週はこれを読んでいた。ノエル・キャロル『批評について――芸術批評の哲学』(森功次訳、勁草書房、2017)。キャロルは分析美学の泰斗にして、芸術・映画の批評も手掛ける研究者とのこと。その大御所が同書で示すのは、自身の批評観であり、批評というものの一般的な「構え方」。それはとてもシンプルかつオーソドックスな(ある意味古風でもある)立場で、「批評とは作品の価値づけのためになされるもの」というものだ。さらにそのためには、価値づけに際して批評家はその理由を示せるのでなくてはならない、とされる。さらにまた、そこでいう価値づけとは、作品を通じて作者が何をなそうとしていたのかという、人工物における意図を問題にして評価されるのでなくてはならない、と。

なるほどこれは、ポストモダンな「作者の死」や受容価値の理論(とキャロルは述べている)などの対極にあるスタンスだ。それだけにキャロルに対する批判もいろいろ出てくることが予想される。訳者があとがきに記しているけれど、実際に批評活動をしている人たちから、一種の拒否反応が示されることもあるという。思うにそうした反応が出るのは、意図主義的なスタンスが強調されてしまうことで、作品をめぐる解釈の多義性、枠組みにとらわれない豊かさなどを、つかみ損ねてしまうかもしれないからだろう。実際同書の中でも、たとえばカルトムービーとして先ごろ再上映されたエド・ウッド『プラン9・フロム・アウター・スペース』への好意的な評価(「SFジャンルのお約束を暴露している、時代反抗的な策略」)に、キャロルは真っ向から批判を加えている。そのような評価は、キャロルからすると、その手の作品(キャロルはこれを激怒に値する茶番であると評している)を観客はどうしたら楽しめるのか、という一点張りの評価にすぎず、批評家が本来的に関心を向けるべきこと、つまり、しかるべき情報や知識をもっている観客が、そうした知識を前提として味わう経験、すなわち「芸術的卓越の追跡」とはなんの関係ももたない、と断じている。なるほど知的達成には、それなりの手順と認識が必要だというわけだ。

けれども、すると複線的な価値観、多重的な構成、別様の可能性など、「多」に開かれる道が、部分的にふさがれることになってしまわないのだろうか、という疑問も沸く。一定の規範から逸脱したものを、下らないと断じてしまう傾向や身振りを、たやすく醸成することにはならないのだろうか。そのあたり、同書がどのような対応を見せてくれるのかが気になるところだが、どうやら末尾のあたりに、その回答めいたものが示されている。批評の判断基準となる原理を、あまり一般性の高くないものに設定する(たとえば対象範囲を芸術一般ではなく、一部の形式やジャンルごとに限定するなど)ことで、そういった固着的な事態をも回避できるということらしい。キャロルはみずからの立場を、「多元カテゴリーアプローチである」と高らかに宣言している。でもそれって、なんだかすごく肩透かしを食わされたような気分……??

ソール・ライター

今日は雑記。コロナ禍の影響で当初の開催予定よりも少し早く終了してしまい、行きそびれてしまった東急文化村でのソール・ライター展。せめてもの埋め合わせにと、一応公式の図録も兼ねているという作品集を入手してみた。永遠のソール・ライター』(小学館、2020)がそれ。ソール・ライター(Saul Leiter)は20世紀の写真家・画家。写真は、とりわけガラスなどを通じた被写体へのアプローチなどが有名だ。ピントがそのガラスのほうに合っていたりして、絶妙なぼかしの表現が味わい深い。被写体を直接撮るというような場合でも、どこかに近景の何かをかませて、ぼかしを巧みに取り込んでいる。見る側の視点がどこかはぐらかされるようでもあるが、それでいて視覚のある種の名状しがたい真実(文字通り「写」真である)を切り取っているかのようで、個人的にはとても惹かれるものがある。近景と遠景のはざまをさまよう視線、余白・奥行き・手前の果てしないせめぎ合い(?)。そのせいか、ライターの作品群はときに不安的ながら、ときに躍動的・リズミカル・動的なものを感じさせもする。図録は実に多くの作品を掲載していて圧巻でもある。

普遍と個物再び

プルタルコスの『モラリア』第72論文、対話篇の「一般概念について―ーストア派への反論」(ちなみにLes Belles Lettres版で再読中)に、「全体」をめぐるストア派の言説をあげつらう箇所(第30章)がある。この対話篇の登場人物によれば、ストア派の論者たちは、実在しないのに「何かである」と言える事象は多々あり、その最たるものが「全体」である、と述べているという。「無限の空虚で世界の外にあることから全体は物体でも非物体でもない。したがって全体は実在しない。よって全体は働きかけもしないし、働きかけを受けることもなく、場所にすらない。場所にないならば、動・不動のいずれでもない。重さもない」と彼らはいうのだそうだ。するとそこから「物体でないものがその部分に物体を含み、非在のものがその部分に存在を含み、重さのないもののがその部分に重さや軽さをもつものを含む」ことになって、一般概念にこれほど反する観念はほかに思いつかない、とこの登場人物は宣言する。

けれどもこのストア派の側の議論のほうがむしろ面白い気がする。その議論では続けて、全体は「それを超えるものはないので何かの部分ではないし、総体でもない。総体は秩序だったのものの述語となるものだが、全体は秩序だってはいない。全体には何らかの原因があるわけでもないし、何かの原因になるわけでもない」とされる。したがって全体は、通常ならば「無」の述語となるすべての述語を取ることになる、と。この対話篇の登場人物たちは、ストア派は残念だという感じで嘆くのだが、いや、実は残念なのはこの登場人物らのほうではないか、という気がしないでもない。ストア派の言説をより深く読み込んでいけば、かえってそうした非在の概念の分析から、物体の実体性、実在性、あるいは一般概念の存立根拠のようなものも導けるのではないか、と。

そんなことを改めて思うのは、田口茂・西郷甲矢人『<現実>とは何か――数学・哲学から始まる世界像の転換』(筑摩書房、2019)を読んでみたからかもしれない。数学者と哲学者との対話を通じて練り上げられた議論というだけで、すでにして刺激的な一冊。しかもそれが実体などの、存在論的な議論に向かうとなれば、これはもう、良い意味で見過ごすわけにはいかない。そしてなんといっても、同書が企てているのがまさに一般概念・通念の転回だからでもある。

同書が問うているキーとなる問題は次のようなものだ。普遍的なものの認識が成立するには、必ずやまずは特定の個別的なものから出発しなければならない。法則が成立するには必ず個別の事象・現象が必要だ。けれども後者から前者が導かれるプロセスは必ずしも意識されない。その「変換」が成立するためには個別の事象と「同じ」他の事象が見いだされ、「置き換え」の可能性が開かれれなくてはならない。ではそこでいう「同じ」とはどういうことか。置き換えの可能性は何が担保するのか。著者たちは量子論とそこから導かれる統計的法則、そして圏論を引き合いに、置き換えの可能性や同じであると見なす根拠が、実は設定された観察の条件に依存すること、したがって法則は「ある」というよりは都度「作られる」ものであり、それ自体としては不定であることなどを論じている。

そしてまた、条件は法則を支えながらも、法則に書き入れられることはない。しかもいったん法則が成立するとなれば、もとになった個別事例は置き換えうるものとして、それ自体は消去されてしまい、法則はあたかもなんらかの実体概念のように捉えられるようになる。けれども実は不定のものでしかなく、自然はそうしたものの上にあり、また数学という営為も、そのような不定性を突き詰めていく学問なのではないか。そこからさらに同書は、自・他の置き換え可能性から倫理の問題、そして決定論と自由の問題を論じるところにまで突き進んでいく。

ストア派の時代にはなかった道具立てが、現代にはある。そのことを強く噛みしめる。

論理とモノ

Sur La Logique Et La Theorie De La Science (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)思うところあって、ジャン・カヴァイエスの『論理学と学知の理論について』をヴラン社のポッシュ版(Jean Cavaillès, Sur la logique et la théorie de la science (Bibliothèque des textes philosophiques), J. Vrin, 2008)でざっと読んでみた(ざっと読んだ程度でわかるようなものではないのだけれど……)。すでに邦訳もあるけれど(構造と生成〈2〉論理学と学知の理論について (シリーズ・古典転生)、近藤和敬訳、月曜社、2013)、今回は原書のほうで見てみた。これは数学者としてのカヴァイエスによる、学知の根底としての論理学への批判の書、あるいは批判の史的展開と思想的展開をからめたマニフェストというところかしら。よくわからないなりに、主要なストーリーラインを追っておこう。カヴァイエスはまず、カントに導かれるかたちで学知の根底には論証の体系が、あるいは数学的な組織化が横たわっていると考えられるようになったと指摘する。前者の立場はボルツァーノからフッサールへ、後者の立場はブランシュヴィックからブラウアーへと継承されることになった、と。これは思想史的な分岐の出発点となり、両者それぞれの議論にその後精緻化が進み、とくに前者においては形式的存在論や直観主義などが必然的に導入されることにもなっていく。

前者はいわばライプニッツ以降の、合理性の領域から数が追われて無限が招き入れられるという状況のさらなる展開だともいわれる。ボルツァーノは学知の限界を初めて概念化し、集合論を取り入れてみせたが、それにより、学知というものがもはや人間精神と存在それ自体の中間物、固有の現実を欠いた中間物ではなく、自律的な運動を伴う独特の対象と見なされることにもなった。こうして学知はすべて論証、すなわち論理学に帰されることになったというわけだ。

しかし今度はそうした論理主義が批判の対象になる。そこでは特殊なものはすべて削除され、いわば形相と質料の分離はとことん突き詰められるしかない。形相=形式のみが残り、かくして数学は形式の体系でしかなくなり、形式主義の外部をなすような論証的認識の問題や、物理学など外部の学問との関係性などは未決定のまま放置されてしまう。やがてタルスキが嚆矢となって、形式的なものと、それに対して外部をなす、形式をつなぐシンタクスとの区別が導入される。しかしそのシンタクスにしても、抽象的な規則にとどまる限り、内実のない空虚なものでしかない。ではそうした形式的なものをまとめあげる根拠はどこに見いだされるべきのか。こうして形式主義は、再びその起源をなしていた「対象」、すなわち現実的な「モノ」を再び見いだすことになる……。

もちろんその手前には、フッサールによる論理主義と意識の理論の統合などがあり、対象すなわちモノは「カテゴリアル(apophantique)な実体」であると規定されなければならない。対象は単に個別のものを抽象化するのではなく、もう一段進んだ一般的事物(事象)だということになる。おお、これはまさしく先の朱子学での「性」(性善というときの)にも通じる、二重の抽象化ではないか!とにかくこうして「対象」(モノ)と、それを捉える合理的主体の自律性とがともに犠牲になることなく連なるようにできる。現実世界の認知が、ここに担保されることにもなる。